クライメイト

低炭素社会への移行に潜在するリスク(1)

統括上席研究員 入谷 浩之

1.はじめに

気候変動や低炭素社会への移行に伴う社会経済へのマイナス影響は気候関連リスクといわれ、そのうち温暖化による海水面の上昇や自然災害の激甚化等による損失を「物理的リスク」、温室効果ガス排出等に関わる法規制や既存技術・資産の座礁資産化、新技術開発の劣後・失敗等による経済影響を「移行リスク」という。低炭素社会に向かう中で、公共政策、技術革新、温室効果ガス排出やエネルギーにかかるコスト、投資家や消費者の行動等が大きく変化することより、社会経済に混乱や衝撃が発生する可能性がある。特に、それらが急激に変化し、計画的に準備されていない場合はなおさらである。本稿では、社会経済に潜在する移行リスクについて概説する。

2.低炭素社会への移行に潜在するリスク(移行リスク)

温室効果ガス削減に関する政策には、カーボンプライシング、技術革新、行動変化の3つの要素が必須とされる1。移行リスクは、これらの要素によって生じる変化や不確実性と捉えられ、以下の4つに分類される2

(1)政策・法的リスク

政策リスクは、低炭素社会化に関わる様々な政策や法制度が、事業活動に影響を及ぼすリスクである。

例えば企業では、温室効果ガス排出に関わる直接的・間接的なカーボンプライシングが導入され、または増加することにより、事業コストが増加する。特に温室効果ガスの排出が大きい産業セクターにおいては、政策の性質・焦点・時間軸が収益に影響し、企業価値や信用力が低下する可能性がある。

また、低炭素社会への移行は、埋蔵化石燃料や関連施設を座礁資産化させる可能性がある。国際エネルギー機関(IEA)特別報告書の執筆者Christophe McGlade氏と英エネルギー経済研究センターPaul Ekins氏は、21世紀を通じて温暖化を産業革命前の水準より2℃上回る水準に抑えるためには、世界の石油埋蔵量の3分の1、ガス埋蔵量の半分、石炭埋蔵量の80%以上を2010年から2050年まで地下に留めるべきであると示唆している3。各国がこれに準じれば、化石燃料埋蔵量に関する権利を有する国や企業は、資産価値を著しく減少させることとなる。炭素に影響されやすい資産の評価の不確実性が高まり、また化石燃料に関わる資産が担保とされている場合にはその評価の見直しにより信用が収縮する。

法的リスクは、気候変動への対応や情報開示が不十分だったことにより損失が起こった場合の訴訟リスクを指す。政府、企業等は、環境上の損害を引き起こしたと考えられる場合には訴訟リスクが高くなる可能性がある。最近では、カリフォルニア州で起きた大規模な山火事の発生に対する損害賠償責任や罰金に対し、計140億ドルの費用を引き当てたことにより破綻した米カリフォルニア州の電力大手PG&Eの例がある。近年、政府や化石燃料関連事業者に対する気候変動訴訟は、件数、提起された国数ともに増加している4。1986年から2020年5月までの間に合計1,500件以上の気候変動訴訟が提起されており、特に米国では1,213件あった5

(2)テクノロジーリスク

テクノロジーリスクとは、低炭素社会への移行を促進する技術革新とその社会実装が進む中で、競争力を失うリスクをいう。再生可能エネルギー、蓄電池、エネルギー効率、炭素回収貯留(CCS)などの低炭素化を促進する技術革新が急速に進み、ビジネスモデル、生産・流通コスト、需要等が大きく変化し、市場優位性を喪失したり、競争力が低下する可能性がある。また、技術開発の実現可能性や時間軸の不確実性も含まれる。

カーボンニュートラルを達成するためには、エネルギー効率向上、低炭素輸送、非化石燃料の利用拡大等に関わる技術革新、炭素回収貯留等の温室効果ガス削減技術が必須である。テクノロジーリスクは幅広い主体に影響を及ぼすが、特に新技術に代替される可能性のある炭素集約度の高い技術や、より高価になる可能性のあるエネルギー源に依拠している企業においては、ダウンサイドの影響を抑え、競争力を維持するために技術革新に適応する必要がある。

また、欧州等においてはCO2を排出する火力発電による電力を生産時に利用した製品に対し、輸入の際に課税することが検討されている。国内で再生可能エネルギーの普及が遅れている現状を踏まえれば自動車等の輸出の制約となる可能性がある。自動車産業全体では国内で約550万人の雇用があるとされ6、EV化も含め雇用の問題にも大きく関わるリスクだ。

(3)市場リスク

市場リスクとは、低炭素社会に移行する中での商品やサービスの需給の不確実性をいう。需給トレンドの分析や経営戦略における競争優位性の分析を通じた影響把握が求められる。低炭素社会に移行するためには、人間の行動変化が重要となる。気候変動に優しい消費行動への転換は、より気候に優しい輸送、製造、エネルギー利用への移行を促進する。このような行動は、今後、物理的リスクも含めた気候変動による損失が顕在化した場合に、より認識が強まり、変化として現れる7

また、需要の変化対応するビジネスモデル・収益源の変更の不確実性、市場変化により生じる資産(化石燃料備蓄、土地、有価証券等)の償却可能性、エネルギーコストや廃棄物処理費用の変動も市場リスクに含まれる。

(4)レピュテーショナル・リスク

レピュテーショナル・リスクとは、ブランド毀損リスクとも言える。低炭素社会への移行に対し、組織が消極的だった場合や悪影響を及ぼしていると認知された場合などに、企業イメージの悪化や不買などのリスクがある。

気候変動に関わる企業の対応や情報開示はステークホルダーの意思決定に影響し、企業の資本コストや資金調達のためのコストを変動させる可能性もある。ESGの要素を投資に組み込むことを目的とした国連が支援する国際的な投資家ネットワーク「責任投資原則(PRI)」の署名機関数は4,000を超えている。環境意識の高まりを背景に、多くの機関投資家が環境問題を抱える企業やプロジェクトから離脱している8

気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)は、気候関連リスクの分類とそれらによる潜在的財務影響例を下表のとおり示している。

3.小括

気候関連リスクの分析は、秩序ある低炭素社会への移行のためにも必要である。各国は、野心的な目標を掲げて低炭素社会の実現を急ぐ姿勢であるが、気候関連リスク、特に移行リスクが的確に把握されなければ想定外の移行リスクが顕在化し、社会経済に大きな混乱や衝撃が発生する可能性がある。

しかし、こうした社会経済の変化は前例がなく、気候関連リスクを過去のデータを用いて把握することは難しい。そうした中で、気候関連リスクの影響をはかる上で有効な手段として期待されているのがシナリオ分析である。将来長期間にわたる不確実性があり、データや定量的モデルが確立していない気候関連リスクに対しては、一定のシナリオに基づき影響度をはかる手法が有効であり、様々な関係機関において試行錯誤しながら計測が進められている。次稿では、そうしたシナリオ分析や影響度等について概説する。

  • Stern Review,” The Economics of Climate Change”, October 2006
  • TCFD, “Recommendations of the Task Force on Climate-related Financial Disclosures” ,June 2017 における分類
  • Christophe McGlade and Paul Ekins, “The geographical distribution of fossil fuels unused when limiting global
    warming to 2°C”, Nature, vol 517, January 7, 2015
  • UNEP,“The status of climate change litigation – a global review”, May 2017
  • Joana Setzer and Rebecca Byrnes,“Global trends in climate change litigation: 2020 snapshot”,July 2020
  • 日本自動車工業会「2050 年カーボンニュートラルに向けた 自動車業界の課題と取組み」(2021年9月16日)
  • BIS,“Climate-related risk drivers and their transmission channels”, April 2021
  • Financial Times,“Sharp rise in number of investors dumping fossil fuel stocks”, 9 September 2019

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