ワーク・エコノミックグロース

ワーク・イン・ライフ時代の従業員支援 イギリスのメンタルへルスアクセス改善策から考える

上席研究員 田上 明日香

在宅勤務やハイブリットワークなど、働き方の変化が大きく加速している。出社を前提としない新たな働き方の中では“職場”の機能をどのように補っていくのかという視点に加えて、個人の心身の健康やウェルビーイングな状態を保つために、今までよりもセルフマネジメントが必要になる。しかしながら、身近にサポート源が乏しい場合など、一人で抱え込んだ結果、最初の小さな悩み事から不調に至ることもある。欧米では、日本よりも専門家相談などのサービス利用が身近であると言われている一方、日本では不調になる前に安心して相談できる環境が一般的であるとは言い難く、また企業等が設置している相談窓口の利用率も低いことが少なくない。そこで本稿では、イギリスのカウンセリングを取り巻く状況と日本との異同と、今後の展望について論じる。

1.イギリスのメンタルヘルスサービスを取り巻く現状

(1)IAPT(Improving Access to Psychological Therapies)とは

イギリスでは、2008年よりメンタルへルスサービスへのアクセスを改善し充実させることを目的とする、IAPTと呼ばれる国家政策プロジェクトが進んでいる。罹患者の多い軽度から中等度のうつ病や、閾値以下のうつ状態の持続に第一選択として推奨され、科学的なエビデンス(治療効果の科学的根拠)のある心理療法が提供されていない状況や、就労に関する指標である非就労、欠勤、プレゼンティーイズム(出勤はしているが労働生産性が低下している状態)なども含む精神疾患による損失が、心理療法に必要な費用を上回るという試算のもと、5億ポンド(800億円)を投じて5年間で5000人のセラピストが養成された。これらの取組みの結果、最低1回IAPTのサービスを受けた人の数は、2008/2009年の4万人から、2019/20年には115万人以上に拡大した。これはセラピストの養成が8,000人以上にまで拡大されたことが大きな要因とされる。

(2)国民保健サービス(NHS:National Health Service)制度とIAPT

IAPTのセラピストの養成では、国民保健サービス(NHS:National Health Service)の中に設置された国立医療評価機構(NICE:National Institute for Health and Clinical Excellence、1999年設立)が国内外の治療法のエビデンス調査の蓄積をもとに作成したガイドラインの推奨治療を提供できるようになることが求められる。これは科学的なエビデンスに基づいた治療法に医療費を投入するという考え方によるものである。

また、NHSの制度では、患者は、地域にある近くの診療所に登録し,病気やけがをしたときは、まず、登録診療所の総合診療医(GP:General Practitioner)に診療をしてもらい(プライマリーケア)、入院や高度な専門医療が必要な場合などに病院を紹介してもらう(セカンダリーケア)。そのため、最初から自分が望むセカンダリーケアの医療を受診することはできない。しかしながら、IAPTは患者が自己診断をもとに受診することもできる《図》。またIAPTの対象疾患は、心理療法で治療効果が示されている、罹患者の多いうつ病や不安症である。そしてIAPTは心理療法を提供するセラピスト中心の組織であり、働くセラピストは公務員で、国民はNHSのサービスとして無料でアクセスできる。

《図》医療制度の中のIAPTの位置

(3)IAPTで行われる介入とその効果測定

NICEでは介入の強度を、低強度と高強度に分ける段階的治療(stepped care)が推奨されており、軽度から中等度のうつ病や、閾値以下のうつ状態の持続に対しては、薬物療法ではなくエビデンスが豊富な心理療法である認知行動療法(CBT: Cognitive Behavior Therapy)が第一選択となり、中心的な役割を担っている。CBTとは、うつ状態や不安をもたらす特徴的な考え方や行動パターンを特定し、変容を促す治療法である。

 

<NICEで推奨される、うつ病に対する低強度の介入>

・電話やメール等によるサポートつきのCBTに基づくセルフ・ヘルプ

・コンピュータ・プログラムによって提供されるCBT

・構造化されたグループベースの身体活動プログラム

 

また介入のクオリティコントロールにおいては、事業者に対して質保証の基準を満たすことが求められ、治療を受けたすべての患者の匿名化されたデータを提供させ、利用のしやすさや治療成績などがチェックされる。このように、質の高いエビデンスに基づく介入を行うための体制が構築され、さらに整備が続いているのがイギリスの現状である。

2.日本のメンタルヘルスサービスの現状

(1)メンタルヘルスサービスの提供環境

日本では2018年に国家資格である公認心理師が誕生し、2022年12月末時点で約7万人が登録されている。このように、国家資格化という大きな一歩を踏み出し、教育機関での心理職の育成のあり方や職能団体による資格取得後の専門性の向上などについて、さらなる改善の検討が進められている。

働く従業員に対する相談対応においては、500人以上の事業所ではメンタルへルス不調により1カ月以上休業している従業員が約1%の割合で存在するため、その休復職前後の相談対応や、50人以上の事業所に義務化されているストレスチェック制度の義務の範囲外での心理職による相談対応が実施されているケースがある。また、心身の健康相談サービスが主に福利厚生の一部として設置されている企業もあるが、利用率は低いことが少なくなく、従業員にとって気軽な相談先として認識されていないことも多い。また、職場で公的なサービスの周知をしても、相談につながるケースは乏しいのが現状であり専門的なサービスが働く従業員に対する相談対応で活用されているとは言い難い。

(2)利用しやすい相談サービスとは

なぜ、専門的支援の相談先があったとしても相談サービスが利用されていないのか。日本人を対象にして行われた研究で、利用を阻害する要因として、スティグマ(偏見)、性別(男性の方が否定的)、感情経験の無条件受容(受容できない人は受けることに否定的)といったことが指摘されている。働く人の心身の健康のセルフマネジメントに寄与する方法の一つとして、相談サービスの認知度を高め、アクセスのしやすさを改善するには、このような阻害要因を乗り越えてアクセスしたくなるような興味関心をひく工夫や、安心して相談でき、また相談することのポジティブなイメージを定着させていくことなどの、サービス事業者側からの積極的な利用方法の提案も重要になる。

3.今後の展望

本稿では、イギリスのメンタルへルスサービスへのアクセス改善施策を紹介し、例えば診断基準を満たさない閾値以下のうつ症状に対する低強度の介入など、働く従業員の相談対応においても有用なエビデンスが示されていることを紹介した。このようなエビデンスのあるプログラムの整備が整い、心理職によって提供されていくことは、従業員のセルフマネジメントを支える方法の一つとなると考えられる。

加えて、どんなによいサービスが提供できる状況が整っていても、従業員が気軽に、安心して相談できるようにアクセスする際の壁を取り除くことなしには、相談サービスにたどり着くことはないため、これら両面からの整備を進めていく必要がある。

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