PHRサービスへの健康行動理論の活用
主任研究員 岡島 正泰
1.はじめに
PHRサービスを活用した健康増進への期待が高まっている。PHRサービスは、個人の健康診断結果や服薬履歴、自らが日々測定するバイタルなどの健康情報であるパーソナルヘルスレコード(PHR)を記録管理し、疾病予防や健康増進、医療・介護現場での活用を目的に健康行動のリコメンドなどを行うサービスである。
政府は、国民の健康寿命の延伸や生活習慣病予防、医療・介護費用の抑制を通じて社会保障制度の持続可能性を高めようとしている。2024年度から開始される国民の健康づくり対策「健康日本21(第三次)」においても、食生活・運動・睡眠・飲酒・喫煙などの生活習慣の改善や、血圧・脂質・血糖の改善などの生活習慣病の予防が目標に掲げられている1。これらの目標に取り組むためにPHRサービスに期待される役割は大きい。
一方、健康増進に関心のない人は思いのほか多い。厚生労働省の調査によると食習慣や運動習慣を改善する意思がない人は約4割を占める2。また、改善する意思があるだけでは健康増進にはつながらない。改善するつもりはあるが取り組んでいない人は約2割を占める。さらに、健康増進は生活習慣の改善を長期間維持することで実現するが、生活習慣の改善を6か月以上維持している人は約15%程度に留まる《図表1》。
2.健康行動理論の概要
このような健康に関心がない人も含めた幅広い人々の健康増進を促してしていくために、人が健康によい行動を行う要因を説明する健康行動理論が活用されている。
健康行動理論は数多く開発されている。とりわけ重要なものとして、多数の理論に影響を与えている「健康信念モデル」「計画的行動理論」「社会的認知理論」「イノベーション拡散理論」が挙げられる。また、最もよく使われるものとして、健康信念モデル・社会的認知理論の他に「トランスセオレティカルモデル」といった理論が挙げられる3。
これらの理論は、個人に焦点を当てたもの、個人間の影響に焦点を当てたもの、コミュニティなどの環境の影響に焦点を当てたものに大別される。例示した理論は、《図表2》のように分類される。
個人に健康行動を促し、それを長期間維持して健康増進につなげていくためには、個人・個人間・コミュニティなどの環境へのマルチレベルの働きかけが有効とされる4。個人レベルの働きかけで行動変容を実現しても、それを取り巻く人間関係、環境も同時に変わらなければ健康行動を長期間維持することは難しい。
また、近年では経済学の一分野である「行動経済学」が注目されている。伝統的な経済学が前提とする個人とは異なり、様々な認知バイアスの下で個人が必ずしも合理的な判断を下せない実態を明らかにしている。それを基に、デフォルトオプション(初期設定で選ばれている選択肢)や効果的なインセンティブの設計などの手法により個人を望ましい行動に自然に誘導するナッジ効果を発揮する。このような行動経済学のノウハウは、特に健康に無関心な人々の疾病予防のための健康行動などへの活用が期待される。
しかし、行動経済学的なアプローチも万能ではない。他の理論と組み合わせたアプローチにより、個人の内発的な動機付けや環境の改善によりインセンティブの提供などの介入を終えた後にも行動変容を維持していく視点が求められる。行動経済学は従来の理論を補完するものとして捉えることができる5。
3.健康行動を促す企業の取り組み
近年のスマートフォンやPHRサービスなどのデジタルツールの普及が、理論に基づく適切な内容・タイミングでの健康行動の働きかけを実行しやすくしている。健康行動理論とデジタルツールを活用して効果的に健康増進を働きけるソリューションを提供する企業が現れてきている。
(1)メッセージによる行動変容エンジン(沖電気工業)
沖電気工業は、健康行動理論をはじめとする行動科学とデジタルを組み合わせ、タイムリーで個別化されたメッセージで利用者の健康行動を促す「行動変容エンジン」を開発している。年齢・性別・歩行・睡眠時間・位置情報・健康行動の準備段階などの心理的な属性に関する情報をもとに、行動科学に基づく適切なメッセージを利用者にスマートフォンのアプリを介して通知し、その行動変容を働きかける。働き盛りの世代を主なターゲットとしており、オフィス空間での健康行動、睡眠を改善する生活習慣、健康と環境に優しいエシカル消費といった様々な行動を促すメッセージを、行動別モジュールをプラットフォームに組み込むことで柔軟に発信できる。この行動変容エンジンを、オフィスビルや睡眠改善アプリ、小売店などと外部連携して普及していこうとしている《図表3》。
この行動変容エンジンは、利用者の健康行動はステージ(無関心期・関心期・準備期・実行期・維持期)を追って進むとするトランスセオレティカルモデルや、行動変容にはモチベーションと能力だけでなくきっかけも必要であるとするFogg行動モデルをベースにしている。利用者のステージに応じたメッセージで行動変容のきっかけを与えると同時に、健康行動の実施方法や生活習慣病などの健康問題に関する情報提供、健康行動実施後のメッセージによるフォローや同じ取り組みをするコミュニティ内のつながりを感じさせるなど、非金銭的なインセンティブで内発的な動機付けも高めていく。また、この仕組みがオフィスビルなどの個人を取り巻く環境に埋め込まれることで、行動変容を一過性のものとせずに長期間継続させる効果も期待できる。例えば、オフィスビルで健康に無関心な従業員がエレベーターに乗ろうとするタイミングでスマートフォンなどで取得する位置情報および本人の健康行動ステージの情報などをもとに階段の利用を促すメッセージがアプリから通知される。身体活動が増えるとアプリ上で「スマートツリー」が配布され他の参加者と協力して街を緑化するゲーミフィケーション機能を提供してコミュニティの一体感を醸成する、といった体験を利用者に提供できる。オフィスビルでの利用や睡眠改善に関する実証実験でその効果も確認している6。
(2)健康行動の嗜好を予測するAI(電通)
電通は、ユーザの性格・価値観から健康行動の嗜好を予測するAI、「actibit」の提供を開始している。年齢・性別・職業・年収・性格などの情報を入力すると、自炊するか・サプリを利用するか・エビデンスを重視するかなどの60項目の健康行動の嗜好や価値観を利用者ごとにAIが推定する。推定結果は60~70%と比較的高い精度で現実の利用者に当てはまる模様だ。このAIを、顧客の属性を個別に管理して販促に活かしている企業や、PHRサービスなどのヘルスケアビジネスに提供する《図表4》。
このAIは、電通が人々の健康行動や健康意識について過去16年にわたり調査した「ウェルネス1万人調査」に属性や性格・価値観に関する調査結果を紐づけたデータから作成されている。既存の健康行動理論には基づいていないが、自社が保有するデータの分析から健康行動の要因を解き明かしている。このAIを活用することで、推定された利用者の健康行動の嗜好や価値観に基づいて健康行動を推奨したり、嗜好や価値観に沿わない健康行動の推奨を避けることができる。例えば、自炊する習慣がない利用者の食事管理を働き掛けるためにヘルシーなレシピを紹介すると本人のやる気を阻害してしまうが、そういった提案を回避できる。また、利用者が自覚していないが実は受け入れやすい健康行動の提案につながる可能性もある。
《BOX》 米国企業のウェルネスプログラムにおける健康行動理論・デジタルの活用
米国では、企業が健康な従業員も対象に健康維持・増進を図る「ウェルネスプログラム」が普及している。米国疾病予防管理センター(CDC)が実施した調査の分析結果7によると、2017 年時点で従業員数10名以上の企業の46.1%が従業員に何らかのウェルネスプログラムを提供している。これらの企業は、従業員の健康リスク評価やコレステロール・血圧・BMIのスクリーニングなどの健康診断、禁煙プログラム、ダイエット、生活習慣のコーチング、ストレスマネジメントといったサービスを提供している。これらのウェルネスプログラムでも、健康行動理論やデジタルの活用が進んでいる。
米国を中心にウェルネスプログラムを提供するOmada Healthは、健康行動理論とデジタルを積極的に活用している8。データサイエンスやプロダクトデザインなどとともに、人の3つの基本的ニーズ(能力・自律性・関係性)に働きかけることが内発的動機付けを高めていくとする「自己決定理論」をサービスの改善に活用している。例えば、健康行動の変化は個人のモチベーションに大きく依存するとの考えから、アプリ等のデジタルデバイスによる働き掛けだけでは不十分との仮説を設定。データ分析によりコーチと利用者との信頼関係が重要であることを確認したうえで、コーチ提供プラットフォームの強化、システム上のトラブルシューティングなどの対応は別チームに移管するなどコーチが利用者との信頼関係の構築に集中できる環境を整えるといった対策に繋げている。
4.まとめ
本レポートでは、健康行動理論や利用者の健康行動の要因に関する独自の調査・分析とデジタルを組み合わせて健康増進を促進しようとする企業の取り組みを紹介した。これらの取り組みと、PHRサービスとの連携が期待される。理論に基づいて個人の内発的動機付けを高め、個人を取り巻く人間関係や環境にも働きかける、本人の嗜好に沿った健康行動を提案するといった適切な取り組みにより、健康に無関心な人々にも健康増進を働き掛けられると考えられる。
これらの取り組みは、PHRとして蓄積されたデータを、オフィスなどの日常空間や日常の購買行動などにおける健康行動に結び付けていこうとする動きと捉えることもできる。このような日常生活に埋め込まれたPHRサービスが普及し、健康日本21(第三次)の目標にも掲げられている「自然に健康になれる環境づくり」が実現していくことが期待される。
また、PHRサービスと医療機関の情報システムや他のPHRサービスとの相互運用性を確保するための検討がPHR普及推進協議会9、PHRサービス事業協会10といった団体を中心に進んでいる。PHRサービスの相互運用性の確保は、本レポートで紹介した健康行動理論に基づいてPHRサービスの実効性を高めるサービスとの連携を容易にする効果も期待できる。これらの事業者の共創による、利便性・実効性の高いPHRサービスの普及が期待される。
- 厚生労働省「健康日本 21(第三次)推進のための説明資料」(2023年5月)
- 厚生労働省「令和元年度国民健康・栄養調査」(2020年12月)
- Karen Glanz、Barbara K. Rimer、K. Viswanath著、木原雅子、加治正行、木原正博訳、「健康行動学」(メディカル・サイエンス・インターナショナル、2018年)PP.26-30
- 同上、PP.42-44
- 一般社団法人日本健康教育学会「健康行動理論による研究と実践」(医学書院、2019年)P.257
- 沖電気工業のホームページ (visited Aug. 31, 2023) < https://www.oki.com/jp/yume_pro/about/healthcare.html > によると、オフィスビルでエレベーターの代わりに階段を利用する者の割合が30%から70%に増加、睡眠改善で利用者の不眠重症度の有意な改善を確認している。
- Laura A Linnan, Laurie Cluff, Jason E Lang, Michael Penne, Maija S Leff, “Results of the Workplace Health in America Survey”, 2019.
- Omada Health, “Meet the Omada Insights Lab Where in-depth data meets deep expertise”.
- PHR普及推進協議会「民間事業者のPHRサービスに関わるガイドライン(第2版)」(2023年2月)を公表し、PHR項目・流通規格の標準化、PHRサービスの質の確保のための方策などの検討を進めている。
- PHRサービス事業協会は、PHRサービスの事業者団体として業界ガイドラインを策定する方針を公表している。
PDF:MB
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