ネイチャー・クライメート

生物多様性クレジットと自然資本市場②
~先進国における制度構築の現状と課題~

上級研究員 鈴木 大貴

前稿では、生物多様性クレジットが注目される国際的背景やその基本概念等を概説した。本稿では、先進国における生物多様性クレジット市場の枠組みや先駆的事例を分析する。
 先進国では多様なアプローチで生物多様性クレジット制度の構築が進んでいる。イギリスでは世界初の法制化された生物多様性ネットゲイン(BNG)制度が2024年2月に本格施行された。オーストラリアでは2023年12月に自然修復市場法が施行され、連邦レベルの生物多様性証明書市場が開始された。欧州では、フィンランドとフランスが相次いでボランタリー生物多様性クレジット制度設立の意向を表明し、EUも2025年末までに自然市場構築ロードマップの策定を予定している。
 次稿では、自然・生物多様性の保有者である新興・途上国の事例等を取り上げる。そして最終的に、日本企業による取組みや、日本における生物多様性クレジット市場の実現可能性を検討する。
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1.はじめに

自然・生物多様性保全に向けた新たな市場メカニズムである生物多様性クレジットに対する国際的な注目が高まっている1。2030年時点で気候変動・生物多様性損失・土地劣化への対処に必要な額と、現在における自然を活用した解決策(NbS)への投資額との差額、すなわち「自然ファイナンスギャップ」が9,420億ドルと推定される中2、生物多様性クレジットは、特に民間資金動員の呼び水として、その解消の一助となる可能性がある3。生物多様性クレジット市場はまだ初期段階にあるものの、制度化と実用化の両面で急速な発展の兆しを見せている≪図表1≫。イギリスの国際環境開発研究所(IIED)の調査によれば、2023年12月時点で約30のパイロットプロジェクトが11の制度のもと、15以上の地域で実施されている4。また、生物多様性市場を専門とする調査機関Bloom Labsの2025年1月の分析によると、約20カ国が生物多様性クレジット制度の構築に取り組んでおり5、各国・地域では、法制度に基づくコンプライアンス市場、自主的な取組みに基づくボランタリー市場、さらには両者を組み合わせたハイブリッド型市場や複数市場の併存まで、多様な試みが展開されている。
 

 

本稿では、このうち特に先進国(15カ国・地域)における生物多様性クレジット市場の制度的枠組みや先進事例を紹介する≪図表2≫。特に後記2では、イギリス・オーストラリア・米国・EUなど、法的枠組みが整備されつつある国々の動向を中心に中立性を意識しながら考察し、後記3で先進国における生物多様性クレジット市場の現状と展望を評価する。なお、必ずしも生物多様性オフセットとクレジットを厳密に区別しているわけではない(オフセット利用を排除した、いわゆる貢献型のクレジットには限定していない)ことをお断りしておく。
 

2.各国における制度とプロジェクト事例

本項では先進国の代表的な制度と注目すべきプロジェクト事例を紹介する。実際には官民連携色の強いものも多数あるが、便宜上、政策的取組みと民間主導の取組みに分類した。また、政策的取組みは制度概要等ごとに、一方、民間主導の取組みは、原則的に生物多様性クレジット創出やプロジェクト主体を担う企業・組織(プレーヤー)ごとに項建てし、実施国・地域をベースとした整理を試みた。各国の記載順序は、主要国については制度の成熟度や市場への影響力、国際的な注目度などを総合的に考慮し、市場の発展段階と重要な動向の体系的な理解に資するよう留意した。

なお、本稿末尾の≪参考図表≫に本稿で取り上げる主な制度・プロジェクトの概要を整理している。

(1)イギリス

イギリス政府は法的義務付けとボランタリー市場の両面で政策的取組みを行っており、生物多様性クレジット市場の形成において世界をリードする存在となっている。

①政策的取組み

a.生物多様性ネットゲイン(BNG)制度:強制力のある生物多様性クレジット制度

イギリスの生物多様性ネットゲイン(BNG)制度は、世界初の法制化された生物多様性純増制度として注目されている。2021年に環境法の一部として成立し、2024年2月から段階的に施行されている。

この制度はイングランドにおいて開発事業者に対し、開発前比で生物多様性の10%以上純増を義務付け、最低30年間の維持管理を要求するものである≪図表3≫。生物多様性ユニットという独自の測定単位を用いてハビタット(個々の生物種の生息に本来必要な、または適した環境を有する場所や空間)が評価され6、その達成にあたり①オンサイト(開発地内)でのハビタット強化・創出、②オフサイト(開発地外)でのハビタット強化・創出、または民間市場での生物多様性ユニット購入、③政府からの法定生物多様性クレジット購入―という優先順位が設定されている。このうち「生物多様性ユニット」と「法定生物多様性クレジット」は明確に区別されており、前者は民間市場で取引される単位、後者は政府(自然環境庁(Natural England))から購入する「最後の手段」としての単位を指す7。いずれも法規制に基づく義務的なオフセット制度における生物多様性クレジットに該当する8
 

 

政府の報告によると、BNG制度施行初年度(2024年2月から2025年2月まで)における法定生物多様性クレジットの販売収入は24万7,416ポンドであった9。法定生物多様性クレジットの価格は、様々なハビタットタイプの創出・維持・モニタリングコストに基づいて設定され、さらには法定生物多様性クレジット価格が生物多様性ユニット市場を下回らないよう上乗せされている10 11

ノーフォーク州のWendling Beck Exemplar Projectは、約2,000エーカー(約800ha)の土地を対象とする大規模プロジェクト事例である12。4名の農家が中心となりつつ、地方自治体・環境NGO・世界最大級の環境保護団体The Nature Conservancy・国内最大の上下水道企業Anglian Waterなどが参画するプロジェクトであり13、Upper Wensum流域という広域(最大1万ha)を視野に入れたランドスケープ(景観)規模での生態系再生を目指して14、Lawtonの原則(より多く、より大きく、より良く、そしてよりつながりのある)に基づき河川・氾濫原・湿地・森林・農地を含む多様なハビタットの創出・再生に取り組んでいる15。また、先進的なモニタリング技術(eDNA16、生物音響学17等)を活用した生物多様性の定量的評価システムを導入し18、約2,500から3,000の生物多様性ユニットの創出を予定している19

なお、BNG制度は農家や土地所有者にとって、生物多様性の保全や炭素隔離のための土地転用により新たな収益機会を提供するメリットがある。その一方で、30年間の土地利用制約に伴う意思決定の困難さや、相続税・付加価値税の取扱いなど、政策上の課題も指摘されている20

イギリス政府は、2025年5月に国家的重要インフラプロジェクト(NSIP)へのBNG適用(2026年5月開始予定)に関する市中協議を開始した21。また、小規模・中規模・ブラウンフィールド(以前に開発された既存の都市用地で、BNG要件の適用において比較的有利な条件を持つ土地)開発におけるBNG要件の簡素化についても並行して検討を進めており、住宅150万戸建設目標との両立を図るため、従来の「小規模」「大規模」の2区分に加えて新たに創設される「中規模サイト」(10-49戸)に対して建築安全課徴金の免除とBNG要件の大幅な簡素化を適用する案が検討されている22。専門家からは「小規模開発サイトが住宅申請の約80%を占める中、過度な免除はオフサイト生物多様性ユニット市場に深刻な打撃を与える」として、制度設計の調整が市場需要に与える影響について懸念が表明されている23 24

              《BOX1》 開発計画・インフラ法案とBNGをめぐる議論
 
 現在、イギリス議会では政府提案の開発計画・インフラ法案をめぐって重要な議論が展開されている。政府は150万戸の住宅建設と自然保全の両立を目指すとしているが、少なくとも28の環境慈善団体が同法案に反対し、一部内容の廃案を求めるまでに至っている。
 特に焦点となっているのが、法案に盛り込まれた「自然再生基金」とBNGの関係である。この基金は開発事業者に代替措置を与え、従来どおりBNGを実施するか、基金拠出によりBNGを含む環境影響評価を回避するか選択できる可能性がある。
 環境監査委員会の委員長(労働党の下院議員)は開発事業者が基金拠出のみを選択し、地域コミュニティが考慮されない状況になりかねないと警告している。同委員長は自然再生基金のメリットは認めつつ、両制度の適切な共存を求めている。
 この議論は、規制的アプローチ(BNG)と資金プール型アプローチ(自然再生基金)の制度設計における根本的な課題を浮き彫りにしている25

 

b.自然市場フレームワーク:ボランタリー市場の発展

(a)イギリス政府によるカーボンクレジットと生物多様性クレジットの統合

イギリス政府は2023年3月に「自然市場フレームワーク」を公表し、生物多様性とカーボンを包括する統合的な「自然市場」アプローチを採用した。この特徴的な枠組みは、自然の保全・回復活動から生じる測定可能な環境便益を「自然クレジット(nature credits)」として定量化し、取引可能にするものである。これには生物多様性クレジットや自然由来のカーボンクレジットなどが含まれる。カーボンクレジットと生物多様性クレジットを分離せず、統合的な市場として捉える視点に基づき、2027年までに年間5億ポンド、2030年までに10億ポンド以上の民間投資を自然回復に動員する目標を掲げている。

このフレームワークは、国内の「森林地(ウッドランド)カーボンコード」と「泥炭地(ピートランド)コード」を基盤としている。両コードは2023年末から2024年初頭にかけて合計2,200以上のプロジェクトを登録するなど、国内で最も確立されたボランタリーな自然由来のカーボンクレジット認証制度である。これらのコードは農村地域スチュワードシップイノベーション研究(FIRNS)の資金を受けて、カーボンクレジットと生物多様性クレジットを統合する方法論の開発を進めている。具体的には、①各種クレジット(カーボンクレジットおよび生物多様性・水などその他生態系サービスクレジット)の売買当事者間の契約雛形、②森林地・泥炭地両コードのプロジェクトがもたらす生物多様性上の利益の測定・評価・クレジット化手法の開発である26 27

(b)ボランタリーカーボン・自然市場のインテグリティ原則策定

さらに、2024年11月にエネルギー安全保障・ネットゼロ省(DESNZ)が「ボランタリーカーボン・自然市場のインテグリティ原則」として6つの原則 を示した。2025年4月にはこれらの原則の実施方法に関する市中協議が開始され、国際非営利団体のボランタリーカーボン市場インテグリティイニシアチブ(VCMI)が開発した基準をベストプラクティスとして採用することなどが提案されている29 30。この協議は、イギリスを「グリーンファイナンスのグローバル・ハブ」として位置づける「変革のための計画」の一環であり、生物多様性とカーボンを包括する統合的な「自然市場」アプローチを推進するものである。同省の発表によれば、適切な条件下で自然市場31は2050年までに最大690億ドルの価値を持つ可能性があるとされる32

(c)英国規格協会(BSI)による自然投資基準(NIS)プログラム

環境・食料・農村地域省(Defra)の資金提供のもと、英国規格協会(BSI)による「自然投資基準(NIS)プログラム」も進行している。このプログラムは、自然プロジェクト供給者(主に農家や土地管理者)が定量化された環境改善を買い手に販売できる高インテグリティな自然市場の構築を目指すもので、一連の基準開発が段階的に進められている。
 
○ 自然市場の包括的原則と枠組み(BSI Flex 701):2024年3月に初版(v1.0)を市中協議に付し、2025年3月に更新版(v2.0)33を正式公表34
○ 生物多様性基準(BSI Flex 702):生物多様性成果の要件を規定し、2024年10月から2025年1月まで初版(v1.0)の市中協議を実施35
○ 自然由来カーボン基準(BSI Flex 703):イギリスの自然由来プロジェクトによる高品質炭素除去と温室効果ガス削減の要件を規定し、2025年3月から5月まで初版(v1.0)の市中協議を実施36
○ 栄養塩市場向け要件(BSI Flex 704):水域の富栄養化対策効果の定量化要件を規定し、2025年6月から7月まで初版(v1.0)の市中協議を実施37
○ コミュニティの参画・便益に関する要件(BSI Flex 705):2025年の夏に市中協議実施予定38
○ 市場ガバナンス・運営に関する基準39:2025年公表予定
 

これらの基準群は、BSI Flex 701を基盤として各分野に特化した要件を規定し、政府が掲げる2030年までの自然投資目標達成を支援するものである40。特に生物多様性に関するBSI Flex 702は、国内の自然市場向け生物多様性プロジェクトの測定・報告・検証(MRV)の品質と一貫性を高めることを目的としている41
 

イギリスの取組みの特徴は、法規制型のBNG制度(コンプライアンス市場)と自主的な「自然市場」アプローチ(ボランタリー市場)が相互補完的に機能する点にある。BNG制度は開発事業者に生物多様性向上の義務を課す強制力のある制度である一方で、自然市場フレームワークはボランタリーな取組みを促進し、より広範な民間投資を動員するための基盤を提供している42。これらの異なるアプローチを並行して推進することで、規制と市場メカニズムのそれぞれの利点を活用し、カーボンと自然を包括的に捉える国際的な潮流を先取りするものと言える。

②民間主導の取組み

a.Earthly:BNG準拠の小規模ユニット生物多様性クレジット

イギリスのネイチャーテック企業Earthlyはボランタリー生物多様性クレジット取引のためのプラットフォームを開発し、高品質の生物多様性クレジットへのアクセスを提供している。同社のプラットフォームは位置情報企業What3Wordsによる位置マッピングシステムを活用し、企業が支援する生物多様性プロジェクトの正確な位置を特定・追跡できる独自の機能を備えている43。2024年10月にはモバイルゲーム開発企業のKingが、サウスダウンズ国立公園の本生物多様性クレジットの初回購入(2万8,000ポンド分)者となるなど、企業の生物多様性への取組みを促進している44。Earthlyの生物多様性クレジットはBNGの方法論に準拠しつつ、より小規模なユニット(9㎡単位)に分割することで、より多様な企業の参加を可能にしている点が特徴である45

ただし、Kingによる購入以降は小規模な取引に留まっており、「イギリスのボランタリー生物多様性市場はほぼ存在しない状態」との指摘もある。現状では、多くの企業はカーボンクレジットに生物多様性付加価値を見出して市場レートを上回る価格で購入する傾向にある46

b.Algapelago Marine:海洋生物多様性クレジットの先駆事例

国内最大級の海藻養殖ライセンス保有企業Algapelago Marineが2025年4月に公表した「Blue Forest Program47」は、欧州初の沖合実証プロジェクトとして、培養した昆布・貝類・海底生態系の修復を活用して海洋生態系の回復を加速させる取組みを行っている。このプロジェクトでは、eDNA解析と安定同位体モデリングを組み合わせた手法で海藻農場から堆積物シンクへの粒状有機炭素(POC)の流れを測定し、カーボン固定と生物多様性の双方を評価している。生物多様性評価には、堆積物eDNA、音響モニタリング、表面・底生カメラ、海藻・貝類の栽培ライン上の種のカウントなど、複数の調査手法を活用している48

(2)オーストラリア

オーストラリアでは、連邦レベルの自然修復市場に加え、州レベル・民間レベルでも多層的な生物多様性クレジット市場の構築が進んでいる。また、「Cassowary Credits」制度は、国内初のカーボンクレジットとの併用を実現し、ダブルカウント防止メカニズムも確立した。これは土地所有者に収益源の多様化をもたらすとともに、他国の制度設計にも大きな影響を与える可能性を秘めている。

①政策的取組み

a.ニューサウスウェールズ(NSW)州の生物多様性オフセット制度:20年以上の歴史を持つ先駆制度

オーストラリアは生物多様性オフセット制度(BOS)の先駆国であり、特にニューサウスウェールズ(NSW)州の制度は20年以上の歴史を有する。2016年に生物多様性保全法(BCA)で法制化され49、開発事業者に開発による生物多様性への影響を相殺するためのオフセットを義務付けている。「回避→最小化→相殺」のミティゲーションヒエラルキーを原則としている。

NSW州では生物多様性評価手法(BAM)という評価システムを用いて、生態系クレジットと種クレジットの2種類が設定されている≪図表4≫。ただし、現在その根拠法であるBCAの大幅な改革が進行中である。
 

 

2023年8月に公表された独立調査(Henry Review)は、現行制度に対し「主要な目的である健全で生産的かつ回復力のある環境の維持」を果たしておらず、「今後もそれを達成することはないであろう」というかつてない厳しい評価を下した50

環境団体や研究者からも、現行制度の下では生物多様性の損失が続いており、特に土地開墾が依然として最大の脅威となっていることが指摘されている。NSW政府自身のデータによれば、BCA導入後も毎年約10万haの原生植生が開墾されており、このうち83%が農業目的によるものである51。科学者らは、自然損失の不可逆性、代替不可能性、場所固有性を考慮すると、単純に「ネイチャーポジティブ(自然再興)」や「ノーネットロス(正味の損失なし)」を掲げるだけでは不十分であり、希少種の個体群の損失を別の個体群の増加で相殺することの生態学的妥当性については慎重な検討が必要と警告した52

こうした中、Henry Reviewの調査結果を踏まえ、NSW州政府は2024年7月に「NSW plan for nature」を公表し、2024年11月には改正BCAが成立した。改正BCAは2025年3月に施行され、制度の抜本的改革が実現した。

改正BCAでは、従来の「ノーネットロス(正味の損失なし)」基準を超えた「ネットポジティブ」な生物多様性成果への移行が法定化され、環境大臣にはネットポジティブ移行戦略の策定が義務付けられた。また、「回避→最小化→相殺」のミティゲーションヒエラルキーが法律に明記され、開発事業者は生物多様性への影響をオフセットする前に、回避・最小化のための「すべての合理的な措置」を講じることが求められるようになった。さらに、生物多様性保全基金(BCF)への支払いによるオフセット義務履行を制限できる規制制定権限も導入された。また、新たな公的登録簿の設置により透明性の大幅な向上が図られ、開発事業者はより厳格なオフセット義務と生物多様性影響の審査を受けると予想される53。ただし、「同種同等(like-for-like)」の生物多様性クレジットによるオフセットを原則とする方針がBCFへの支払いで形骸化するとの課題に対しては、BCFの管理者に支払い受領から3年以内のクレジット確保義務を課すに留まり、BCF支払いによる迂回(抜け道としての利用)を具体的に制限する規制の制定は今後の課題として残された54

なお、本格的な改革は2025年以降段階的に実施される。2025年3月に改正BCAの大部分が施行されたものの、プロジェクト設計段階で生物多様性への影響を回避・最小化する真の措置の評価に関する重要な条項は除外されており、関連する2017年生物多様性保全規則の改正完了までは現行制度下での評価・決定が継続される55

b.自然修復市場:連邦レベルのボランタリー生物多様性証明書市場

2023年12月には連邦レベルで自然修復市場法が施行され56、自然修復市場と称される全国的な自然資本市場(国家レベルのボランタリー生物多様性証明書市場)の基盤が整備された。この市場は個人・企業・地方政府・先住民族コミュニティなど幅広い参加者に開かれており、生物多様性証明書の取得や取引が可能となる57。2025年に正式稼働を開始し、同年2月には初の方法論「在来林・森林生態系の再植林方法論」が公表された58。この方法論は、歴史的に広範な森林伐採が行われたランドスケープにおいて、在来林の再植林を通じて生物多様性を向上させるプロジェクトを対象としている59。同時に、国内のカーボンクレジット制度(ACCU)との相互運用性も確保されている60 61

現在、クリーンエネルギー規制監督庁(CER)が市場運営を行っている。今後も永続的保全方法論、侵略的生物管理方法論、草原方法論など、複数の方法論開発が予定されている62。また、先住民族主導の方法論開発に向けて先住民族組織とのパートナーシップも進められている。「生物多様性評価手段(BAI)」も整備され、異なる方法論間での生物多様性便益の比較が可能となっている。

また同年6月には、連邦および州の環境大臣が「30by30」目標(2030年までに陸域・海域の30%を保全)に向けたロードマップに合意し、「OECM」(保護地域以外の生物多様性保全に資する区域)を自然修復市場の枠組みに組み込むことも決定している63。これらの取組みは、保護地域の拡大と生物多様性クレジット市場の連携を図る先進的な事例として注目される。

生態学などの専門家からは、市場メカニズムだけでは不十分であり、政府による長期的な投資や強固な環境法の整備も必要との指摘もなされているが64、自然修復市場は民間資金を活用した生物多様性保全の新たな資金調達手段として期待されている。

②民間主導の取組み

a.Wilderlands:永久保全型生物多様性ユニット(BDU)

オーストラリアの生物多様性クレジット開発企業Wilderlandsは、2022年8月の設立以来、独自の「生物多様性ユニット(BDU)」を開発・販売しており、国内の脆弱なハビタット保全に大きな成果を上げている。4つの主要保全プロジェクト(ビクトリア州のBudgerum、NSW州のCrowes LookoutとAlleena、南オーストラリア州のCoorong Lakes)を管理しており、各プロジェクトは様々な希少種や固有種の保全に貢献している。各BDUは1㎡の土地の永久保全と20年間の積極的管理を表し、すでに10万以上のユニット(約10ha相当)が保全されている。各BDUは3から10豪ドルで取引されている。

Wilderlandsのクレジットは多様な購入者に販売されており、複数の鉱業企業や不動産開発企業も主要な買い手となっている。これらの企業はサプライチェーンの持続可能性向上やESG目標達成の一環として生物多様性クレジットを購入しており、開発事業者からも具体的な需要が存在することを示している。

Wilderlandsは先住民との協働も展開している。特にCoorong Lakesプロジェクトは先住民Ngarrindjeri族との協働で実施されており、伝統的知識と現代的保全手法の融合が図られている65

また、Wilderlandsは企業とのパートナーシップも積極的に推進している。2024年後半にはアジア太平洋のカーボンオフセット企業であるTasman Environmental Markets(TEM)と連携し、「Extended Impact」ソリューションの提供を開始した。これは、WilderlandsのBDUとTEMのプロジェクトから認証されたカーボンクレジットを組み合わせたもので、購入者に国内でのカーボン排出量のオフセットと自然保全の機会を同時に提供するものである。

さらに、消費者市場における生物多様性保全の価値の可視化を目指し、パーソナルケアブランドal.ive bodyとの共同製品開発も行っている。この取組みでは、同ブランドの製品ひとつの購入につき1㎡の土地が保全される仕組みを導入しており、日常的な消費活動と生物多様性保全を直接結びつける新たなモデルを提示している66

Wilderlandsは「調達された資金の70%以上がプロジェクトの継続的管理に直接使用される」という透明性の高いモデルを構築しており67、土地所有者に自然保全のための経済的インセンティブを提供している。

b.Accounting for Nature(AFN):測定された成果に対する支払い制度

オーストラリアの環境市場企業GreenCollarはNaturePlus生物多様性クレジットという仕組みを開発し、2024年後半には独立性確保のため独立非営利団体Accounting for Nature(AFN)に管理が移管された68

この仕組みの特徴は「測定された成果に対する支払い」であり、将来の生物多様性回復を目指す活動ではなく、「既に第三者監査・認証された環境状態の向上を達成したプロジェクトにのみクレジットを付与」する点にある。各NaturePlus Creditは「1haの測定・検証された積極的な修復またはハビタット・種の保全」を表し、継続的クレジット付与により長期的改善を促す設計となっている。同制度はあらゆる生態系への適用を想定して設計されており、在来植生・動物相・土壌・淡水・海洋環境に対応するAFN認定手法の利用が可能である。2023年10月に最初のクレジット(8,500超)がNSW州西部の持続可能放牧・カーボンファーミング(農地における炭素貯留活動)プロジェクトに発行された69。現在20のプロジェクトが登録中で、うち2つがクレジット発行済みであり、これまでに6万435クレジットが発行されている70

c.Eco-Markets Australia:カーボンクレジット併用可能ヒクイドリクレジット

国内における独立環境市場管理機関のEco-Markets Australiaは、2025年5月に新たな生物多様性クレジット市場「Cassowary Credits(ヒクイドリクレジット)」を開始した。Eco-Markets Australiaは既にReef Credit Scheme(グレートバリアリーフの水質改善のためのボランタリー環境市場)も運営している。

この市場はクイーンズランド州Wet Tropics地域の熱帯雨林保全を目的とし、「カーボンクレジットのコベネフィットではなく、純粋な生物多様性クレジット」として設計されている。政府管理のカーボンクレジット制度(ACCU)との「スタッキング」(同一土地での複数種クレジット同時創出)71が国内で初めて実現された点が特徴である。ただし、オフセット目的での使用は禁じられており、自然への積極的貢献のみに限定されている。ダブルカウントを防ぐため、ACCUプロジェクトが先行登録され、生物多様性クレジットには「ACCUプロジェクト単独では実現しなかったであろう追加的な生物多様性便益」の提供が求められる。測定手法では、測定可能で独立して検証された熱帯雨林の状態改善を重視し、先住民の「積極的参加」を制度に組み込んでいる。

また、本制度はWet Tropics地域に限定されており、連邦の自然修復市場や前記bのNaturePlusとは別個に運営される72

(3)米国

米国では、オフセットベースの保全バンキング制度が実施されてきたほか、2025年5月には国内初のオフテイク生物多様性クレジット契約が締結され、実用化段階に入った。

①政策的取組み

a.保全バンキング:絶滅危惧種保護法に基づくハビタット保全市場

米国の保全バンキングは、絶滅危惧種保護法(ESA)に基づくハビタット保全のための市場メカニズムである≪図表5≫。1990年代から発展してきた制度で、特に種の保全に焦点を当てている点が特徴的である73
 

 

米国魚類野生生物局(FWS)が認証・監督し、種ごとにクレジットが設定され、地理的に制限された(同一生態系内での)取引が行われる。バンクのオーナーは土地の永続的な保全と管理に責任を持ち、クレジットの販売によって収入を得ることができる74。米国全土で130超の保全バンクが設立され、15万エーカー(約6万ha)以上の土地が永続的に保全されている75

例えばカリフォルニア州のサンホアキン・キタキツネ保全プロジェクトでは、開発事業者がキタキツネのクレジットを購入して住宅建設などの開発行為による影響を相殺している。これらのクレジットは、プロジェクトサイトから離れた場所にある保全されたキタキツネのハビタットを表しており、バンクのオーナーはこのハビタットを永続的に保全・管理する責任を持つ76

②民間主導の取組み

a.Qarlbo Biodiversity:米国初のオフテイク契約締結

スウェーデンの森林投資企業Qarlbo Biodiversityは、2025年5月に米国サウスカロライナの森林投資企業6M Propertiesと生物多様性クレジットの売買契約締結を公表した。国内初のボランタリー生物多様性クレジットのオフテイク(将来発行予定のクレジットの事前購入)契約と報告されている。このプロジェクトはルイジアナ州で実施され、ロングリーフパイン生態系(かつて9,000万エーカー(約3,640万ha)あったが現在は5%未満まで減少)の復元を目指す77

生物多様性クレジット一般について、米国における投資家にとっては、クレジット売却による財務収益と持続可能な土地管理による長期的資産価値向上の二重リターンが期待されている。特に金融、エネルギー、食品・農業、消費財、建設の各業界からの需要が見込まれており、ESG目標達成の手段として位置づけられている78

(4)カナダ

①政策的取組み

カナダにおける生物多様性クレジットに関する政策的取組みに係る有用な情報は確認できなかった。

②民間主導の取組み

a.Coast Funds:先住民主導の保全金融ツール

カナダでは、先住民主導組織であるCoast Fundsが2024年6月に、先住民(ファーストネーション)の自然保全活動への資金動員を目的としたガイドラインを公表した。このガイドラインでは、債務型金融商品や補助金とともに、カーボンクレジットや生物多様性クレジットが探求すべき資金調達メカニズムとして位置付けられている。報告書では新興の生物多様性クレジットの探求がコミュニティの優先事項のひとつとして言及されている79

b.Alus:「カーボンプラス」生物多様性クレジットによる農業ソリューション

カナダの自然ベース農業ソリューション開発企業Alusは、2025年5月に「カーボンプラス」アプローチによる初の検証済みクレジット創出を発表した。これは従来のカーボンクレジットに生物多様性の付加価値を統合したもので、AlusのCEOは「炭素隔離は、生物多様性損失の防止と生態系保全を目指すクレジットのより大きな便益の一部にすぎない」と述べている。

このプロジェクトは、民間原子力発電企業Bruce Powerがスポンサーとなる3年間・100万カナダドルのパイロットプロジェクトの一環として実施される。Alusは6つの州にまたがる39のコミュニティで活動し、農家と5万エーカー(約2万ha)以上のプロジェクトでパートナーシップを組んでいる。同社のクレジットは通常のカーボンクレジットよりも「大幅に高価」になる予定で、地域コミュニティでの影響を重視している。ただし、「生物多様性を測定する多様な方法はあるものの、統一プロトコルが存在しない」課題も指摘している80

(5)EU

①政策的取組み

EUは生物多様性クレジット市場の基準・方法論を2026年半ばまでに確定し、2027年末までに自然市場を確立する計画を積極的に進めている81。EUにおける生物多様性クレジット市場の発展は、2020年5月に採択されたEU生物多様性戦略2030と、2024年8月に発効した自然再生法(NRL)(または自然再生規則(NRR))82という包括的な政策枠組みに支えられている。特にNRLは、EU域内の劣化した生態系の20%に2030年までに再生措置を講じるという法的拘束力のある目標を加盟国に設定しており、この目標達成に向けた資金動員の手段として、生物多様性クレジットを含む自然市場の役割が重要視されている。

a.自然クレジット市場政策の統合的アプローチ:オフセット排除型の積極的貢献クレジット

(a)欧州委員会の自然クレジット市場政策オプション検討

EUにおける行政執行機関である欧州委員会は現在、専門家を採用し自然クレジット市場の政策オプションを検討している83

2024年9月には、フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長が「農家が生物多様性損失や気候変動に対処するための新たな金融手段が必要」と述べ、自然クレジット市場の創設に言及したほか84、同年10月にはCBD COP16のサイドイベントとして「生物多様性認証と自然クレジットに向けたEUの取組み」が開催された。このイベントでは、EUの先駆的な取組みとして、フランスとのパートナーシップによる湿地に関するパイロットプロジェクト、エストニアとのパートナーシップによる民間森林に関するプロジェクト、さらにペルーのアマゾンでのプロジェクトが紹介された。これらは生物多様性の破壊の相殺・補償ではなく、自然に対する積極的な貢献を目的としていることを強調している85

EUは2025年予算の7.5%を、また2026年と2027年には10%を生物多様性目標に割り当てるとともに、自然クレジットのような追加的資金源の模索を約束している86

(b)「Climate Biodiversity Nexus」プロジェクト

2024年1月には「Climate Biodiversity Nexus」プロジェクトが始動し、ボランタリーカーボン市場と生物多様性保全の連携強化や、独立した生物多様性クレジットの開発に関する調査が行われた87。特に市場の需要側、およびその規模と質を向上させるための政策措置に焦点が当てられ88、同年10月に終了している89

(c)EU持続可能な金融に関するハイレベル専門家グループ(HLEG)提言

2024年4月に公表されたEU持続可能な金融に関するハイレベル専門家グループ(HLEG)の最終報告書において、中低所得国(LMICs)への投資促進手段として生物多様性クレジット市場の拡大が欧州委員会に提言されたことも重要な進展と言える。同時に報告書は「生物多様性クレジット市場はまだ初期段階であり、国際的に認知された生物多様性単位の方法論確立、価格設定メカニズムの構築、追加性に関連する規制とインテグリティのセーフガードの採用といった課題に直面している」と指摘している90

b.自然市場構築に向けたロードマップ策定

欧州委員会は2025年5月に、同年末までに自然市場構築・拡大のための包括的ロードマップを策定する計画を公表した。このロードマップは、生物多様性の定量化・監視、取引インフラの構築、自然クレジットの需要喚起という3つの重点分野に焦点を当て、加盟国やステークホルダーとの協力のもと「国際的な生物多様性認証に向けた新たなアプローチ」を目指すとしている。

リーク文書によると、EU レベルでの規制介入の適切性・必要性の検討や、対象を絞った公的・官民共同の初期資金提供も視野に入れている。市場は証明書とクレジットの二段階アプローチを採用し、2026年には生物多様性保全効果を必須とするカーボンファーミング方法論の開発も計画されている91

重要な方針として、EU市場は「生物多様性への影響を補償するオフセットではなく、自然や生態系維持への積極的な貢献を表すクレジット」のみを対象とすることが改めて確認された。これらのクレジットは、経済活動のグリーン性判定ルールであるEUタクソノミーや、企業サステナビリティ報告指令(CSRD)の下で企業の自然貢献を示す証拠として、またNRLや共通農業政策(CAP)に基づく生物多様性ファイナンスの枠組みとして活用されることが期待されている92

c.加盟国との協調的取組み

(a)自然クレジットに関するハイレベルラウンドテーブル

2025年4月には、欧州委員会が主要銀行や農業団体を含む様々なステークホルダー93との「自然クレジットに関するハイレベルラウンドテーブル」を開催し、環境保全と投資促進の両立に向けた市場形成の道筋を探る議論を行った94。この会議では「健全で信頼性の高い方法論の構築」や「革新的戦略による自然クレジット市場の成長促進」などが議論され95、EUが自然市場の発展に向けた取組みを強化する姿勢を示している96

(b)欧州投資銀行(EIB)とCDC Biodiversitéの共同研究

欧州投資銀行(EIB)と生物多様性の保全・回復に特化したフランスの公的金融機関子会社であるCDC Biodiversitéが2025年2月に共同研究を開始し、フランスのボランタリー生物多様性市場の深さに関するデータ収集と分析を行っている。この調査は将来的に他のEU加盟国にも拡大することが想定されており、各国の特性に応じた収益化戦略の提案も視野に入れている97

(c)地域委員会(CoR)による意見書策定

EUの政策決定に影響を与える諮問機関である地域委員会(CoR)は、EU全体の自然クレジット市場の機会と課題を検討する、「生物多様性と生態系サービスを促進するための自然クレジットの枠組み設計」と題する意見書の策定を2025年10月の採択を目指して進めている98

また、2025年6月には、自然クレジットをEUのCSRDと、加盟国の国家環境戦略に統合すべきとする提言案を準備した。具体的には、CSRD下のESG報告枠組みでの自然クレジットの認識、国家・地域の生物多様性・気候戦略への組込み、地方自治体への技術・行政支援の提供、収益の公正な配分の確保などが提案されている。一方でCoRは、特定の生物多様性保全目標を損なう可能性があると指摘し、自然クレジットとカーボンクレジットを互換性のあるものとして扱うことに警鐘を鳴らした。また、「金融投機と環境目標弱体化につながる可能性がある」として、自然クレジットの二次取引防止やオフセット目的での使用排除の必要性を強調している99

d.炭素除去認証枠組み(CRCF)との統合

欧州委員会は湿地と森林の生物多様性を測定するための方法論開発を支援し、特にカーボンクレジットと生物多様性クレジットを同時に創出する「カーボン+生物多様性」の統合手法の開発を進めている。EUの炭素除去認証枠組み(CRCF)では、湿地再生(1,000年以上の炭素貯蔵期間を想定)や森林(60〜100年の貯蔵期間)など、異なるタイプのカーボンファーミングに対応した方法論を開発しており100、こうした取組みは生物多様性保全との相乗効果を生かした統合的アプローチとなっている。欧州委員会は「生物多様性の共同便益を提供するカーボンファーミング活動のための認証方法論の開発を優先する」と表明しており、これらの方法論は段階的に導入される予定で、DACCS(大気中からの直接炭素回収・貯留)やBECCS(炭素回収・貯留を伴うバイオエネルギー)、バイオチャー(バイオ炭)に関する最初の方法論が2025年第4四半期までに、湿地再生や再植林、アグロフォレストリーなどのカーボンファーミング方法論が2026年第1四半期までに採択される予定である101。これらの方法論はEU域内でのプロジェクト開発や市場形成の基盤となることが期待されている。

e.欧州生物多様性観測連携センター(EBOCC)構想

また、欧州委員会は生物多様性の測定・評価手法の標準化にも取り組んでおり、欧州生物多様性観測ネットワーク(EuropaBON)プロジェクトの成果として2024年5月に「欧州生物多様性観測連携センター(EBOCC)」の設立が提案されている。この常設インフラは、EUの政策全体で使用される生物多様性知識基盤を支える高品質なデータの生成と使用を調整・促進することを目的としている102。また、森林の状態評価については、欧州委員会の研究者らによって2023年に公表された研究で、国連の生態系会計に関する国際統計基準に基づく0〜1の評価スケール(0が劣化した生態系、1が原生林または保護林に基づく参照状態)が開発されている103

f.政策課題と懸念

(a)自然クレジット自体への懸念

様々な検討が進められる一方で、生物多様性クレジットの開発に関してはEU内部でも懸念が表明されている。2024年10月の欧州議会環境委員会(ENVI)会合では、昆明・モントリオール生物多様性枠組(KM-GBF)のEU首席交渉官が「欧州委員会は生物多様性『認証』を有力な企業の自然貢献手段と見る一方、生物多様性『クレジット』については実用性・透明性・説明責任への懸念を共有している」と述べた104

また、ENVIと市場参加者との間で「クレジット」「オフセット」「証書」といった用語の定義や使用法に解釈の相違があることも指摘されており105、共通理解の確立が課題となっている。

国際NGOや研究機関からは、EU加盟国が生物多様性クレジット制度を効率的に運用・拡大するための「基盤」として、科学的定義と政策ガバナンスの統一的なセット、すなわち認証枠組みを開発する必要性が指摘されている106

(b)規制緩和による需要創出への影響懸念

欧州委員会が自然クレジット市場の推進と情報開示規制のCSRDの緩和(延期・縮小)を同時に進めていることも、市場の需要創出への矛盾として専門家から指摘されている。

自然保護団体のEuroNatureは、「現在、最大の問題は需要が存在しないこと」であり、「企業のリスク認識・知識なしには自然クレジット市場は機能しない」として、生物多様性に関する企業情報の開示義務が需要喚起に不可欠であると主張している107

なお、EUと前記(1)のイギリスはどちらも「自然クレジット」を志向している。Brexit(EU離脱)後のEUとイギリスの関係において、イギリスの生態系コンサルティング企業ArbtechのCEOは、EUが2027年末までにブロック全体のボランタリー自然市場確立を目指す中、「自然に国境はない」として、2025年5月に合意された両者の排出量取引制度(ETS)連携と同様のアプローチによる市場統合の必要性を指摘している108

                  《BOX2》 市場成熟度と企業需要の制約要因
 
 オーストラリアの気候変動投資アドバイザリー企業Pollinationの2024年調査では、16組織による生物多様性クレジットの販売実績は32.5万から187万ドル程度で、約2.6万から12.5万haの保全を実現した109。一方、2024年の実態は約20件の小規模取引(通常5万ドル以下)に留まり、市場は供給過多・需要不足の状況にある110。米国のコンサルティング企業ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)は、生物多様性クレジット市場の根本的課題として「明確な需要側ユースケースの不足」を指摘している。BCGが特定した8つの潜在的ユースケースのうち、最大の需要が見込まれるのは「企業の自然目標・オフセット目標の達成」(約40%)と「サプライチェーンの環境サービスアクセス保護」(約45%)であるが111、(オフセット利用の除外が主流の)現行定義では企業が生物多様性クレジットを直接的な生物多様性影響上の訴求に使用できないため、以下の需要制約が生じている112
 
○ 本質的性格の限界:現行定義下では、生物多様性クレジットは「企業による自然保護慈善活動」に実質的に限定され、明確なビジネス便益(何らかの対価)がない
○ 管理負荷の増大:従来のCSR活動と比較して、管理複雑性とグリーンウォッシュリスクがより大きいにもかかわらず明確な付加価値がない
○ 地理的不整合:企業の調達地域と生物多様性クレジット上の重要地域の地理が一致しない
○ インセンティブの不在:現段階では規制的枠組み(TNFD、SBTNなど)に企業の大量購入を促すメカニズムが存在しない
現にコンプライアンス市場が年間約100億ドル規模であるのに対し、ボランタリー市場は非常に小規模であり、市場の成熟には時間を要する見通しである。
 
 特に重要なのは、生物多様性クレジット市場の健全な発展が適切な政策的枠組み(コンプライアンス型・ボランタリー型の両方)に大きく依存している点である113。カーボン市場と異なり、生物多様性は本質的に地域固有で代替不可能であるため、単純な市場メカニズムだけでは解決できない複雑性を有している。政策的枠組みとの連携が市場発展の鍵となる。

(6)ドイツ

①政策的取組み

a.影響緩和規制:世界最古の生物多様性オフセット制度

ドイツは1976年以来、世界で最も成熟した生物多様性オフセット制度を運用してきた歴史を持つ。連邦自然保護法を中核とする「影響緩和規制」は、ミティゲーションヒエラルキーに基づく包括的なオフセット制度の先駆けとなり、「ノーネットロス」原則を採用して環境への不可避な影響を同等の生態機能の回復を通じて補償することを義務付けている114

b.エコアカウント制度:州レベルでの取組み

ドイツでは一部の州が独自のエコアカウント制度を運用しており、取引可能な「エコポイント」による生物多様性クレジット市場が確立されている。この制度は「環境貯蓄口座」として機能し、開発影響に先立って保全措置を実施し、土地の種類に応じて異なる価値ポイントを法的に割り当てて蓄積することを可能にしている。例えばバーデン・ヴュルテンベルク州では、州営企業のFlächenagentur Baden-Württembergが最も発達したシステムを運用し、エコポイントは補償措置が必要な事業実施者に販売される民間取引として機能している115

②民間主導の取組み

a.PlantedとHula Earth:ドイツ初の生物多様性クレジット商業取引

ドイツの保全開発企業Plantedと技術企業Hula Earthは、2024年5月にドイツ初の生物多様性クレジット商業取引を実現した。両社はザウアーラント地域の10haの絶滅危惧ブナ林保護プロジェクトから約2万件の生物多様性クレジットを創出し、フィンテック企業のWundertaxと子供用品企業のEmma & Noahに販売した。

各クレジットは1㎡の土地を20年間保護することを表し、土地所有者との公証契約により永続性が確保されている。Plantedは森林の継続的保護を担当し、Hula Earthは衛星画像とIoTセンサーを組み合わせた先進的モニタリングシステムによる生態系監視とクレジット発行を手がけている。モニタリングではキーストーン種(指標種)としての鳥類、空間・スペクトル多様性、種の豊富さ、生態系の活力、ハビタット連結性、生態系サービスなどが継続的に測定されている。

これらのクレジットはCSRDへの対応手段として企業の自然保全に対するコミットメントの証明に活用されており、価格は土地所有者への公正なリターンと企業にとっての魅力的な価格設定のバランスを模索している段階である116

(7)フィンランド

①政策的取組み

a.EU初のボランタリー生物多様性クレジット制度:企業マーケティング使用可能

フィンランド政府は2024年10月にEU加盟国として初めて、企業がボランタリー生物多様性クレジットに投資できる市場制度を開発する計画を公表した。

この市場の原則はボランタリーカーボン市場の原則を反映しており、市場から購入した自然クレジットは、企業の報告書や製品・サービスのマーケティングで自然関連の訴求に使用できる。フィンランドはすでに企業が自然や生物多様性のオフセットを利用して損害を補償することを認めており、これに加えてクレジットによる様々な種類の訴求が可能となる。政府は生物多様性クレジットの生成基準策定、検証システム構築、クレジットの永続化・登録を行うとともに、生物多様性ユニット購入に伴い投資家が行える訴求の類型に係るガイダンス提供も予定している117

(8)フランス

①政策的取組み

a.ボランタリー生物多様性クレジットの国家制度:SNCRR制度による統一的枠組み

フランス政府は2024年11月に、フィンランドに続きEU加盟国として二番目にボランタリー生物多様性クレジットの国家制度設立を表明した。これまでフランスでは、後記②aのCDC BiodiversitéやbのLe Printemps des Terresなどの民間事業者が独自の基準でクレジットを発行してきたが、今回の国家制度により統一的な枠組みが提供されることになる。

この制度は二次市場での取引禁止により市場の金融化リスク118を制限するなど、生物多様性クレジットに関する国際諮問委員会(IAPB)が策定した枠組みを参考にしている。また、グリーン産業法を根拠としており、同法により2023年に導入された自然補償・修復・再生サイト(SNCRR)でのプロジェクトは119、国の承認を得たうえでIAPBが定めた原則に沿って取引可能なユニットを生成し、買い手は生物多様性の回復に貢献したり、その影響を補償したりできるようになる120

②民間主導の取組み

a.CDC Biodiversité:公的金融機関による継続的市場参加

生物多様性の保全・回復に特化したフランスの公的金融機関子会社であるCDC Biodiversitéが管理する「Cros du Mouton」プロジェクト(南フランスのサント・マキシム地域の150ha)から、国内の公的金融機関La Banque Postaleと郵政公社La Posteがボランタリークレジット3ユニットを1ユニットあたり約5万ユーロで購入したことが2025年2月に明らかになった121。La Banque Postaleは今後数年間で国内の生物多様性クレジットに約15万ユーロを追加投資する予定であり、これにより他企業にも生物多様性保全への資金提供を促す狙いがある122。これは金融機関の継続的な市場参加の事例として重要である。

b.Le Printemps des Terres:第三者認証済み生物多様性ユニット完売事例

フランスの生態系再生企業Le Printemps des Terresは「Bois Magnin(広葉樹林植林と河川と湿地帯の再接続)」と「Feing Counot(泥炭地の再生・保全)」の2つのプロジェクトから発行された生物多様性ユニット(BU)を完売し、約160万ユーロの収入を得ている。各ユニットは1㎡の生物多様性エリアの修復と30年間の管理を表し、1ユニットあたり6ユーロで販売された。両プロジェクトは前出のCDC Biodiversitéが運営するNature2050プログラムの科学委員会(環境・エネルギー管理庁(ADEME)、国立自然史博物館(MNHN)、フランス生物多様性庁(OFB)、フランス自然環境連盟(FNE)、フランス鳥類保護連盟(LPO)等で構成)による認証を受けている123

また、Le Printemps des Terresは国内3番目のプロジェクトである「Ripisylve de Canteloup(川岸の自然再生)」でもSMBV Adour-Garonneによる第三者認証を受けており、350BUが販売済みで、残る2,350BUが販売可能となっている124

c.生物多様性認証機構(OBC)

前記bのLe Printemps des Terresとプロジェクト開発企業aDryadaが共同で設立した生物多様性認証機構(OBC)は2025年5月に、国内全土における生物多様性クレジットの市場導入支援に向けたパイロット枠組みの立ち上げを公表した。国内の3,000ha以上で実施される20以上のプロジェクトを通じ、OBCが開発した生物多様性認証の手法の堅牢性を検証する。OBCはこれに先立ちコートジボワールでも生物多様性クレジットパイロットを実施している125

(9)イタリア

①政策的枠組み

a.生物多様性クレジットのパイロットプロジェクト:国立生物多様性フューチャーセンター主導

イタリア政府は国内で生物多様性クレジットのパイロットプロジェクトを開始する計画を2025年5月に公表した。国立生物多様性フューチャーセンター(NBFC)が主導し、市場構築に向けた国際的な取組みへの情報提供も目的としている。

イタリアではベネツィアのラグーン生態系保全など、生物多様性クレジットを活用した自然への資金動員を模索するプロジェクトが複数進行中であり、こうした動きは欧州委員会によるEU全体の自然クレジット枠組み構築の動きと連動している。市場発展における課題として、土地所有権の分断や大規模な修復適地の不足など、イタリア特有の地理的・制度的制約を考慮した市場設計が求められている126

b.イタリア国家統一機構(UNI)による枠組み策定:ネイチャーテック企業との協働

イタリアの国家標準化機関であるイタリア国家統一機構(UNI)は市場構築に向け、2025年3月に生物多様性クレジットの定量化方法・モニタリング要件・訴求ガイダンスを定めた枠組みを公表した。この枠組みの開発には、国内のネイチャーテック企業である3Beeが協力している127

(10)ベルギー

①政策的枠組み

a.国家生物多様性戦略・行動計画(NBSAP)での市場推進:カーボン市場の教訓活用

ベルギー政府は新たな国家生物多様性戦略・行動計画(NBSAP)において、生物多様性クレジット市場の発展を推進する方針を2025年5月に表明した128

国による市場への関与方法は明示していないものの、「カーボン市場から得られた教訓を将来の生物多様性クレジット市場に引き継ぐことが不可欠」として、市場の潜在的な誤用への懸念も示している129

(11)スペイン

①政策的取組み

a.カタルーニャ州の気候クレジット制度:炭素・水・生物多様性統合評価

スペインのカタルーニャ州では、2023年12月に炭素・水源涵養・生物多様性の3指標(森林火災予防も考慮)を評価対象とする気候クレジット制度が施行された130。この制度は純粋な生物多様性クレジットではないが、生物多様性の要素を気候クレジットに統合する先進的アプローチとして注目される。生物多様性の評価手法としてはフランスで開発された潜在的生物多様性指数(IBP)が用いられており131、IBPは10の測定項目(樹種の多様性・植生の垂直(階層)構造・立ち枯れ木・倒木・大径木(巨木)・マイクロハビタット(小規模生息環境)など)について0-5段階で評価するシンプルな手法である132

b.カタルーニャ技術センター(Eurecat):定量化・検証方法論の研究開発

また、スペイン最大級の研究・技術センターであるカタルーニャ技術センター(Eurecat)も、カーボンおよび生物多様性クレジット市場のための定量化・検証方法論の開発を重点研究領域に位置付けており、欧州の主要研究機関においても生物多様性クレジットの測定・評価手法の高度化が注目されている133

(12)オランダ

①政策的取組み

a.国家生物多様性クレジット制度:自然ポイント計算ツールによる評価

オランダの非営利団体De Nationale Biodiversiteitsbankは、政府支援を受けて国家規模での生物多様性クレジット制度の構築を進めている134。2024年には、国内で3つのパイロットプロジェクト(期間:30年間)を開始した。各プロジェクトの規模は10ha未満で、劣化した農地・湿地・森林を対象としている。

この制度では、コンサルティング企業Swecoが開発した「自然ポイント(Naturepoints)」という計算ツールを使用し、プロジェクトによる生物多様性の増減を、国家レベルでの独自性・対象種の存在に基づくハビタットの質・ha単位での表面積という3つの要素に基づいて算出する。地域は0から1.0のスケールで評価され、0は生物多様性がないことを示し、1.0はすべての対象種が存在する理想的なシナリオを表す≪図表6≫。
 

 

価格設定では、異なるランドスケープの多様な管理コストを考慮した平均化システムを採用し、より高コストな生物多様性プロジェクトでも資金調達が可能となるよう配慮している135

同制度は将来的にイギリスのBNG政策(前記(1)①a参照)に比肩する国家的制度としての活用が期待されており、政府は国家戦略にも組み込む方針を示している136

(13)アイルランド

①政策的取組み

a.泥炭地生態系証明書制度:5要素統合型の取引不能な証明書

アイルランドの非営利団体Peatland Finance Irelandは、2025年3月に泥炭地向けの「Peatland Standard V1.0」を開始した137。この制度は生物多様性・炭素・山火事軽減・水・コミュニティ便益の5つの要素を統合したボランタリー生態系証明書制度で、プロジェクトは最低ひとつの要素を含む必要がある。また、生物多様性クレジット同盟(BCA)の原則、カーボンクレジット品質基準であるコアカーボン原則、世界経済フォーラム(WEF)による国際協力強化ガイダンスに基づき策定されている。

証明書は取引不能であるが、CSRDに基づく開示において、企業のネットゼロ・生物多様性緩和・水管理戦略の成果として活用できる。

環境・農業・国立公園の主要政府部門が運営委員会に参加し、現在16のパイロットプロジェクトが検討されており、うち2つが2025年後半に開始予定である138

なお、同制度の開発には、自然ベースの気候ソリューションを支援するAmazon’s Right Now Climate Fund(RNCF)、欧州投資銀行(EIB)の欧州投資諮問ハブ(EIAH)、アイルランドの国立公園野生生物サービス(NPWS)と農業・林業・食品・海洋省(DAFM)が資金援助している139

(14)スウェーデン

①政策的取組み

スウェーデンにおける生物多様性クレジットに関する政策的取組みに係る有用な情報は確認できなかった。

②民間主導の取組み

a.Qarlbo Biodiversity:欧州初のボランタリー生物多様性クレジット取引

スウェーデンの生物多様性投資企業のQarlbo Biodiversityは、スウェーデン農業科学大学(SLU)と共同で森林生態系の保全と持続可能な管理を促進する生物多様性クレジット方法論を開発した。2023年5月にはこの方法論に基づきスウェーデン最大手行のひとつSwedbankが森林協同組合のOrsa Besparingsskogから91の生物多様性クレジットを購入し、欧州初のボランタリー生物多様性クレジット取引を実現した140

2024年5月には方法論を刷新し、さらに5つの新規パイロットプロジェクトを公表している141。同年10月には、Orsa Besparingsskogと販売・マーケティング企業Devi Groupとの間で国内初の商業的な生物多様性クレジット取引が行われた142

Qarlbo BiodiversityのCEOは「これは森林保全・再生が、実行可能な金融商品に変換できることを示す確固たる概念実証である」と述べており、森林所有者に対する新たな収入源の創出と持続可能な森林管理実践の促進を目指している143。また、アイルランドの森林テクノロジー企業Treemetricsとの戦略的パートナーシップを通じて、森林ランドスケープにおける生物多様性の測定・報告・検証(MRV)ツールの開発も進めている144

(15)ニュージーランド

①政策的枠組み

a.生物多様性クレジット制度創設に向けた検討:市場支援と市場管理

ニュージーランド政府は「市場支援」と「市場管理」の両面から生物多様性クレジット制度の創設を検討している。前者はボランタリークレジット導入の政策条件を確立し、市場確立後は政府資金も投入するというもの、後者は政府管理のクレジット制度を設立して積極的な市場管理を行うものである145。2023年7月から11月にかけて環境省と保全省はパブリックコメントを実施し、276件の意見を収集した。2024年4月に公表された結果概要によると、回答者の76%が生物多様性クレジット制度の導入を強く支持し、70%が制度が生物多様性保全への投資を呼び込むと考えている一方で、46%がオフセット利用に反対し、55%がプロジェクトに特定の期間設定を求めるべきとした。政府の役割については、44%が市場・登録簿の運営とクレジット検証を重視し、42%がカーボンクレジット制度との一定の連携を支持している146

なお、本パブリックコメントへの回答ではないが、国内の農業団体からは水質保全と生物多様性を包含する農業計画の重要性と生物多様性クレジットの活用可能性が指摘されており147、農業セクターがクレジット供給の重要な担い手となる可能性がある。

②民間主導の取組み

a.Ekos Kāmahi:国内初の生物多様性クレジット取引実現

ニュージーランドの環境コンサルティング企業Ekos Kāmahiは、「持続可能な開発ユニット(SDU)プログラム」という枠組みの下で、「BioCredita生物多様性クレジット」を開発し、2022年に国内初の生物多様性クレジット取引を実現した148

代表的なプロジェクトであるSanctuary Mountain Maungatautariは、北島ワイカト地方に位置する3,363haの保護区で、47kmの外来生物防除フェンスによって囲まれた「先住民の生物多様性のための避難所(生態学的な島)」として機能している。世界で最も希少なオウムの一種であるカカポや北島カカ、ニュージーランドファルコンなど、多くの固有鳥類を保全している149。このプロジェクトでは2022年に最初の取引が建設・製造企業であるProfile Groupとの間で成立し、83haの保全管理資金を調達した150

BioCredita生物多様性クレジットの単位は、100㎡の生物多様性保護区域を1年間保全することを表し151、1クレジットあたり約5.47ドルで取引されている。従来は補助金による資金調達に依存していたが、生物多様性クレジットが新たな資金源として機能し始めている152。Ekos Kāmahiが開発したシステムの特徴は、明確な環境市場品質であり、標準規格と方法論が環境監査企業McHugh & Shawによって検証されている。この制度では「自然に価格を付けるのではなく、自然を守るための人間の労働と技術コストに価格を付ける」手法を採用し153、ブロックチェーン技術を活用したユニット登録制度を基盤としている154

3.小括(先進国における生物多様性クレジット市場の現状と展望)

先進国における生物多様性クレジット市場は、自然・生物多様性損失への対応、そして「自然ファイナンスギャップ」を埋める新たな資金調達手段として、急速な発展段階に入ったと言える。各国で多様なアプローチが見られるが、特にイギリスを含む欧州を中心に制度化の動きが活発である。

イギリスでは、生物多様性クレジット制度を組み込んだ生物多様性ネットゲイン(BNG)制度が2024年2月から本格施行され、開発事業者に対し生物多様性の10%以上の純増と最低30年間の維持管理を義務付けている。さらに、国内で包括的な「自然市場フレームワーク」を整備し、カーボンクレジットと生物多様性クレジットを統合的に捉える「自然クレジット」のアプローチを推進している。英国規格協会(BSI)による自然投資基準(NIS)プログラムも進行中で、生物多様性プロジェクトの測定・報告・検証(MRV)の品質と一貫性を高めることを目指している。こうした法規制型とボランタリーな市場アプローチの相互補完的な機能が、イギリスの取組みの大きな特徴である。

オーストラリアでは、州レベル(特にNSW州)での20年以上にわたる生物多様性オフセット制度の経験を踏まえ、2023年12月に連邦レベルで自然修復市場法が施行された。これにより、全国的なボランタリー生物多様性証明書市場の基盤が整備され、2025年の正式稼働に向けて方法論開発が進んでいる。特に、国内で初めてカーボンクレジットとのスタッキングを可能とした「Cassowary Credits」のような純粋な生物多様性クレジット市場の動きも注目される。

EUでは、2020年5月採択の「EU生物多様性戦略2030」や2024年8月発効の「自然再生法(NRL)」を背景に、欧州委員会は自然クレジット市場の政策オプションが検討されており、2025年末までに自然市場構築・拡大のための包括的ロードマップを策定する計画である。重要な方針として、オフセットではなく自然や生態系維持への積極的な貢献を表すクレジットのみを対象とすることが確認されている。加盟国でも、フィンランド(2024年10月)とフランス(2024年11月)が相次いでボランタリー生物多様性クレジットの枠組みや国家制度を公表し、イタリアも2025年5月にパイロットプロジェクトの開始を表明するなど、制度的基盤の整備が急速に進んでいる。また、ベルギーの事例に見られるように、各国のNBSAP(国家生物多様性戦略・行動計画)においても生物多様性クレジットへの言及が増加している。

一方、各国で実施上の課題も明らかになっている。イギリスでは早くもBNG制度見直しの議論も始まっている。オーストラリアのNSW州では依然として生物多様性の損失が続いており、現行制度の有効性に対する厳しい評価も存在する。EU内でも自然クレジットを巡る立場は一様ではない。

各国共通の課題も多い。第一に、測定・評価手法の科学的妥当性と実用性の両立、第二に、適切な価格形成メカニズムの確立、第三に、市場の透明性と比較可能性の向上、そして最も重要な課題として、社会的な合意形成と公正性の確保が挙げられる。特に、クレジット化が生態系の複雑性や地域社会の権利を過度に単純化し、損なうことのないよう慎重な制度設計と運用が求められる。「同種同等(like-for-like)」原則の遵守や、ミティゲーションヒエラルキー(悪影響の回避→最小化→相殺の優先順位)の徹底は、そのための基本原則と言える。

次稿では、生物多様性のホットスポットを多く抱え、先進国とは異なる社会経済的文脈を持つ新興・途上国における生物多様性クレジットの多様な展開と、それがグローバルな自然資本市場に与える影響を考察する。
 

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