なぜ高齢者はお金を使わないのか
~心理的収支が阻む保有資産の取り崩し~
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1.取り崩されにくい高齢者の保有資産
家計の資産形成を促す動きが進む一方、形成した資産をいかに有効活用するかという問題への関心も高まりつつある。とりわけ、高齢化が進む日本では、家計金融資産の多くは高齢世帯が保有しており、高齢者が保有資産をどのように活用するのかは、世帯ごとのミクロ的な問題のみならず、日本経済全体の消費をはじめとした経済活動を考える上でのマクロ的な問題でもある。老後に備えて形成された資産が十分に活用されなければ、高齢者が本来行うことができる消費をも抑制し、家計資産が十分に活用されない可能性がある。
こうした中、日本においては高齢者による資産の取り崩しが、ライフサイクル仮説など、理論上想定されるよりも進んでいないことが指摘されている。実際、総務省「全国家計構造調査」で年齢別の資産金額をみても、高齢者の資産残高の減少ペースは緩やかである(図表1)。高齢者の資産取り崩しの遅さについて、先行研究では、将来の医療・介護費、長生きリスクなどに備えて資産を保有する予備的貯蓄動機や、子供などに資産を残そうとする遺産動機などが要因として挙げられてきた。
しかし、内閣府「高齢者の経済生活に関する調査結果(令和6年度)」によると、「経済的な暮らし向きに心配がない」かつ「貯蓄の取り崩しがない」世帯が、32.2%と少なくない割合で存在している(図表2)。このことは、資産取り崩しの遅さが、しばしば指摘される将来不安だけでは十分に説明できない可能性を示唆している。本稿では、従来指摘されてきた予備的貯蓄動機や遺産動機とは異なる視点として、「心理的な収支の赤字」を避けようとする傾向も、資産の取り崩しを抑制している可能性に着目する。詳細は後述するが、ここでいう心理的な収支とは、厳密な家計収支ではなく、年金や利子・配当などを日常的な収入として認識し、その範囲内で生活しようとする家計管理上の認識を指す。
本稿の構成は以下のとおりである。2章では、高齢者の資産取り崩しが緩やかな理由について、先行研究を整理した上で、心理的な要因や資産活用を支援する制度の不足という観点から考察する。3章では、英国の職域年金制度NESTを取り上げ、退職後の資産活用を支援する仕組みについて解説する。4章では、NESTの取り組みを参考に、日本における資産活用支援の在り方について提言する。
2.高齢者の資産取り崩しが緩やかな理由
高齢者の資産取り崩しが緩やかである理由については、これまでも多くの研究が行われてきた。代表的な説明の一つが、将来の不確実性に備えて資産を残そうとする「予備的貯蓄動機」である。寿命の予測が困難であることはもちろんのこと、将来の医療・介護費等の金額についても不確実性が高い。そのため、長生きした場合や予期せぬ支出に備えて資産を保有し続けることには、一定の合理性がある。もう一つが、配偶者や子などに資産を遺そうとする「遺産動機」である。村田(2018)1は日本の高齢世帯による資産取り崩しがライフサイクル仮説で想定されるペースと比較して緩やかであることを確認した上で、予備的貯蓄動機や遺産動機がその背景にある可能性を示している。また、Niimi,Horioka(2019)2は、予備的貯蓄動機と遺産動機の双方が資産取り崩しの遅さを説明する要因となっており、特に予備的貯蓄動機の影響は大きいことを指摘している。こうした先行研究によって、高齢者が資産を取り崩さない理由として、不確実性への備えや親族等への資産移転という合理的な理由が少なからず存在することが示されている。
もっとも、これらの要因だけでは高齢者の資産取り崩しペースの遅さを十分に説明できない可能性がある。前述の通り、経済的な暮らし向きに心配がない高齢者でも少なからぬ割合が貯蓄を取り崩していないことが示されている。また、全ての高齢者が強い遺産動機を持っているとも考えにくく、予備的貯蓄動機や遺産動機以外の要因も資産の取り崩しに影響を与えている可能性がある。
そこで本稿が着目するのが、資産を「使えるお金」として認識しにくい家計の心理的な側面である。行動経済学では、お金を入手経路や用途などによって異なるものと認識する「メンタル・アカウンティング」が知られている。Pearson, Korankye & Qing(2024)3は、退職後の資産取り崩しが理論上想定されるよりも緩やかである点について、メンタル・アカウンティングによって説明できる可能性を指摘している。つまり、同じ経済価値を有するお金であっても、それが日常的なキャッシュフローであるか否かによって、人々の使い方が異なる可能性がある。保有する資産そのものと、年金や利子・配当などから得られる収入を、心理的に別の勘定として捉えることで、十分な資産を保有していても、日常的なキャッシュフローの範囲を超えて消費することに抵抗を感じる可能性がある。
日本の高齢者の資産取り崩しがなかなか進まない理由は、こうした行動経済学的な視点で説明することも可能ではないだろうか。従来の議論が「不確実性に対応するために残す」「親族等のために残す」といった資産を残す理由に着目してきたのに対し、本稿では、十分な資産があり、将来への強い不安や強い遺産動機が無くても、「収入を超えて支出することへの心理的な抵抗」が資産の取り崩しを抑制している可能性に注目したい。
こうした視点から考えると、現行制度の在り方にも課題が見えてくる。近年、新NISAやiDeCoなど、資産形成を後押しする制度は十分に整えられてきた。一方で、高齢期の資産活用を支援する仕組みについては十分とは言い難い。例えば、保有資産をどの程度のペースで取り崩せば現在の生活水準を何年間維持できるのかといった目安を、利用者が容易に把握できる仕組みはまだ整備されていない。目安を自ら把握するためには、金融知識に加え、将来の運用益や寿命など不確実な要素を踏まえた判断が求められる。多くの高齢者にとって容易なことではなく、資産の取り崩しの遅れに繋がっている可能性がある。資産形成だけでなく、形成された資産を有効活用することまで視野に入れた制度整備が求められる。
3.英国NESTにみる資産活用支援
資産の有効活用を促す仕組みとして、参考になるのが、英国の確定拠出型の職域年金制度であるNEST(National Employment Savings Trust)である。NESTは職域年金に加入していない労働者にも老後に向けた資産形成を広げることを目的として、英国政府によって2010年に設立された公的な年金制度である。それまでは、職域年金に加入していない労働者が多く存在していたことがあり、その後2012年から段階的に導入された職域年金への自動加入制度の受け皿として、NESTは重要な役割を担ってきた。現在では加入者が1,300万人を超えるなど、英国最大規模の職域年金制度となっている。
NESTでは当初、労働者の資産形成を支援する役割を中心としていたが、加入者が蓄積した資産を退職後にどのように活用するかについても検討を進めてきた。2015年には退職後の資産活用に関する構想を公表し、退職後に安定的な収入を確保しながら、必要に応じて資産を引き出すことのできる仕組みが提案された。こうした考え方を発展させ、2020年には「Guided Retirement Fund」と呼ばれる仕組みが導入された。
Guided Retirement Fundでは、加入者の資産を、①日常的な引出しに充てる「Wallet」、②緊急時に利用できる「Safe」、③将来の引き出しに備えて運用を続ける「Vault」、④85歳以降の所得確保に備える「Later Life」の4つに分けて資産が管理される。加入者の年齢や資産残高などを踏まえて、持続可能な年間の取り崩し金額を算定し、その範囲内で資産を活用できるようにする一方、残った資産については運用を継続する。こうした仕組みによって、退職直後に資産を使いすぎることと、必要以上に資産を温存することを共に抑制している。加入者に対して一律の取り崩し方法を示すのではなく、判断の拠り所となるガイドを提供することで、高齢者が安心して資産を活用できる環境を整備している点に特徴がある。
日本にとって特に参考になるのは、単に資産を取り崩すべきと促すのではなく、保有資産からの持続可能な取り崩し金額を具体的に示し、残った資産の運用までを一体的に支援している点である。高齢者が心理的収支の赤字を嫌っていたとしても、取り崩し金額と資産が枯渇する時期の目安が示されることで、資産を取り崩すことによって生じる心理的な抵抗を和らげることができる可能性があり、目安を分かりやすく提示する仕組みが求められる。英国のNESTの仕組みは、日本の高齢者の資産活用を促す上で、大いに参考になる制度であると言える。
4.日本でも資産の有効活用を支援する制度の構築を
本稿で挙げた課題を踏まえると、日本においても資産形成だけでなく、資産活用を支援する制度の整備が求められる。第一に重要なのは、高齢者が安心して資産を取り崩すための目安を示すことである。保有資産や想定利回りなどを基に、現在の生活水準を維持した場合に資産がどの程度の期間持続するのか、毎月どの程度の金額であれば取り崩しが可能なのかといった目安を、分かりやすく、定量的に提示することが考えられる。最終的な意思決定は各人が行うとしても、判断の拠り所となる情報が提供されることで、保有資産の取り崩しを過度に恐れ、「心理的な収支」の黒字に固執することを一定程度抑制することが期待される。
第二に、こうした資産活用への支援は、制度を新たに構築するのではなく、既存の確定拠出年金(DC)に組み込むことも考えられる。例えば、DCの運営機関が、保有資産や想定利回りなどを基に、一定の前提のもとでの資産の持続期間や毎月の取り崩し可能金額を定期的に提示する仕組みを導入することが考えられる。
第三に、税制の問題も挙げられる。現行制度では、企業型確定拠出年金・個人型確定拠出年金共に受給者の約9割が一時金受給を選択している(図表3)。税制上の優遇措置などにより、一時金受給を選択するインセンティブが働きやすいことが背景にあるものと考えられる。しかし、一時金として得た資産の活用方法を利用者だけに判断を委ねれば、運用収益率や寿命といった不確実要素を考慮しながら、適切な取り崩し金額を自分自身で試算し、判断していく必要があり、多くの人にとって困難を伴う作業となるだろう。計画的な資産活用を後押しする観点からは、年金形式での受給を選択しやすくする制度設計についても検討の余地がある。
これまで日本の制度では、老後に向けていかにして資産を形成するかという点が重視されてきた。しかし、形成した資産をいかに使うかまで支援してこそ、資産形成の成果を高齢期の豊かな生活に繋げることが可能になる。資産形成から資産活用までを一体的に支援する仕組みの構築が求められる。
- 村田啓子(2018)『日本の高齢世帯の貯蓄取り崩し行動について:ミクロデータによる分析』, ESRI Discussion Paper
- Niimi, Horioka(2019), ”The wealth decumulation behavior of the retired elderly in Japan:The relative importance of precautionary saving and bequest motives”, Journal of the Japanese and International Economies
- Pearson,Korankye & Qing(2024), ”The Retirement Consumption Puzzle:A Mental Accounting Explanation”, Journal of Financial Counseling and Planning
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