企画・公共政策

観光産業で生じる価格と賃金の地殻変動
~賃金劣等生からの脱却の日は近い~

主任研究員 小池 理人

2023年の国内旅行消費額は21.9兆円と大きく回復し、訪日外国人旅行消費額も、5.3兆円とコロナ前を大きく上回る水準にまで増加している。国内外の旅行需要回復を背景とした値上げに成功する中で、宿泊事業者の経常利益は改善傾向にある。こうした中、深刻な人手不足は引き続き大きな課題だが、それは同時に、かつて低賃金労働の代表業種の一つとみられていた宿泊業の賃金が大きく上昇する契機になっている。とりわけパートタイム労働者の賃金は全産業平均に肉薄する水準まで高まっている。一方、正社員の賃金は依然低めだが、利益改善や需要の平準化が後押しする形で、今春の労使交渉では正社員の賃上げにも踏み込む動きがある。正規・非正規を問わず従業員の処遇改善が進めば、人材獲得における競争力の向上にも繋がるだろう。
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1.国内旅行・インバウンド共に、コロナ前を大きく上回る消費金額

観光庁が4月30日に公表した「旅行・観光消費動向調査」によると、2023年の国内旅行消費額は21兆9,101億円と大きく回復した。宿泊旅行が17兆7,960億円(2022年:13.7兆円)、日帰り旅行が4兆1,141億円(2022年:3.4兆円)と、それぞれ2022年から大きく回復している。訪日外国人の旅行消費額は5兆3,065億円と、コロナ前の2019年の4兆8,135億円を大きく上回り、過去最高となった。

国内宿泊旅行についてみると、延べ旅行者数が減少する一方で、旅行単価が上昇することで旅行消費額が押し上げられている(図表1)。ただし、直近では延べ旅行者数についても回復の動きがみられる。2023年の春から秋頃までは、旅行単価の上昇に伴い、延べ旅行者数の減少幅が拡大していた。それに対して足もとでは、旅行単価上昇の中でも延べ旅行者数が回復しており、価格上昇が消費者に受け入れられていることが示唆される(図表2)。

訪日外国人の旅行消費額は過去最高の金額となり、更に目覚ましい回復を遂げている。消費額の内訳を見ると、訪日外客数の回復もさることながら、消費単価の上昇が著しい(図表3)。旅行単価はコロナ前の1.4倍にまで増加しており、国別にみても、訪日外国人消費動向調査から確認できる全ての国において旅行単価の上昇が確認できる。

主たる背景の一つには、円安の影響が挙げられる。コロナ前に110円近辺で推移していた為替レートは、足もと150円台後半で推移している。実質実効為替レートでみても円安方向への推移が続いており、日本での観光は外国人旅行者にとって、かつてないほど割安になっている(図表4)。これにより、外国人観光客にとっては、自国通貨建ての旅行予算が同じであったとしても、財やサービスの購入数量を増やすことや消費単価を上げることが可能になる。国別にみると、日本国内での消費単価が高い外国人観光客は、平均宿泊日数も多く、旅行期間の長期化も消費単価の上昇に貢献していることが窺われる(図表5)。なお、宿泊日数の増加には、円安の影響のほかにも、事業者や行政による受け入れ態勢の整備が実を結んだことも大きな要因とみられる1

2.値上げと利益改善に成功する中、パート労働者中心に賃上げにも波及

国内旅行・インバウンド共に好調な観光産業だが、深刻な人手不足は引き続き大きな経営課題である。日銀短観の雇用人員判断DIによると、宿泊・飲食サービス業の人手不足は全産業平均よりも深刻であることが示されている(図表6)。報道によると、人手不足を理由に空室があっても予約を受けられないなど、供給制約による需要の取りこぼしも生じているようだ。実際、宿泊旅行統計をみても、旅行需要が大きく増加する中で、稼働率が2019年対比で上がらない様子が示されている(図表7)。

一方で、こうした人手不足は人材獲得競争を激化させ、宿泊事業者が賃金の大幅な引き上げに動く契機にもなっている。「HRog賃金Now」の賃金指数によると2、宿泊業3のパートタイム労働者の募集賃金は、元々は他の産業対比で低水準にあったが、飲食業や販売業といった他の労働集約的な産業の募集賃金を上回るペースで上昇し、全産業平均に近い水準にまで肉薄している(図表8)。かつては低賃金労働の代表的な業種の一つとみられていた宿泊業であるが、強い需要と値上げ、それに伴う利益の改善を背景に、高い賃上げを実現することが可能になってきたとみられる(図表9)。

3.正社員の賃上げは遅れているが、需要平準化の効果もあって今後に期待


ただし、宿泊業の正社員の賃金については、パートの賃金のように急激な伸びはみられていない(図表10)。上昇の動きこそ継続しているものの、他産業と同程度の伸びに止まっている。人手不足が強まる中でも正社員の募集賃金が大きく高まらない理由の一つに、宿泊業における需要の季節変動の大きさが挙げられる。やや古いデータにはなるが、観光庁「GWにおける観光旅行調査」における2009年のデータによると、年間旅行量の多くが年末年始やゴールデンウィークといった大型連休や土日に集中しており、平日の旅行量はわずか16.5%に止まっていたことが示されている4。季節変動が大きい業種は、パートをはじめとした非正規雇用での対応に依存しやすくなる。正規雇用を増やすことは、閑散期における人員余剰に繋がる可能性があるからだ。実際、厚生労働省の「労働力調査」によると、宿泊業の非正規比率は55.6%と過半を占め、全産業平均の37.0%と比較してもはっきりと高い。

しかし、宿泊業の季節需要のバラつきは、主に以下の二つの理由から縮小に向かっている。一つは訪日外客数の増加だ。外国人の休暇や祝日のタイミングは日本人とは異なるため、訪日外客数が増加することで、観光需要が平準化されやすくなる。もう一つは、日本における働き方改革の進展だ。2019年4月からの有給休暇の取得義務化によって、大型連休や土日祝日以外での旅行需要が生じやすくなっている。実際、コロナ前には宿泊業の季節需要の平準化が持続的に進展していた。観光庁「宿泊旅行統計調査」をみると、月別稼働率の標準偏差(バラつき)はコロナ禍での混乱期を除き、低下傾向にあったことが示されている(図表11)。より細かく見ると、2013年には繁忙期である8月の稼働率が66.3%、閑散期である1月の稼働率が45.6%と、20.7%ポイントもの差が生じていたが、コロナ前の2019年には同時期の稼働率の差は15.4%にまで縮小している(図表12)。コロナ禍においては標準偏差が大きく上振れたが(2020年:13.0→2021年:7.6→2022年:7.5)、2023年に標準偏差は4.7と平時に戻りつつある。2023年の標準偏差が2019年対比で高い理由は、同年前半にまだコロナの影響が一部残っていて、旅行需要の回復が遅れていたことの影響であろう。今後は、訪日外客数の増加や働き方改革を背景に、観光需要の平準化トレンドが再び顕在化してくるだろう。

観光需要が平準化されるのであれば、宿泊業においても正規雇用を増やす余地が生じる。また、パート賃金が急騰し、正社員賃金との格差が縮小する中で、正規雇用の割合を増やすことは経営上の合理性もある。さらに、正社員比率の上昇によって従業員のスキルを継続的に蓄積させることは、生産性、ひいては利益率の上昇に繋がり、更なる賃上げの原資を生み出すことも可能になることが見込まれる。マクロ経済全体でみれば人手不足の解消は難しいものの、強い外需を取り込むことのできる観光産業においては、正社員労働者の賃上げに踏み込むことで、産業間の人材獲得における競争力を向上させることが可能になるだろう。実際、サービス・ツーリズム産業労働組合連合会(サービス連合)によると、今春の労使交渉では、4月15日時点で賃金改善要求を掲げた78組合のうち、定期昇給込みで5%を超える賃上げ水準で27組合が合意するなど、正社員の賃金についても改善の動きが出てきている。こうした動きが人材獲得の強化に繋がっていくのか、今後の動向が注視される。

  • 例えば、観光立国推進基本計画においては、滞在期間の長期化が目的として掲げられており、容積率緩和制度の活用促進や金融支援を通じた宿泊施設の整備促進が提示されている。
  • HRog賃金Nowの概要や特色については、「オルタナティブデータが示す雇用・賃金の姿」を参照。
  • HRog賃金Nowの分類では「ホテル/旅館/ブライダル」となっているが、本稿では便宜上「宿泊業」と記載する。同様に、「飲食/フード」を飲食業、「販売/接客/サービス」を「販売業」と記載する。
  • 暦の日数と旅行量については、「ついに動き出した中国人観光客」の図表6を参照。

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