シティ・モビリティ

阪神・淡路大震災における神戸市復興の光と影
~人口減少時代の復興の難しさ②~

上席研究員 岡田 豊

阪神・淡路大震災は、戦後の日本として初めて経験する、巨大都市を襲った直下型地震であったため、未曾有の被害からの復旧が注目された。官民挙げた総力戦の結果、ライフラインを中心にインフラ整備は驚異的な速さで進むなど復旧は順調で、被災地の多くは2000年前後に被災前人口を回復した。一方、阪神・淡路大震災で初めて掲げられた「創造的復興」は大きな注目を浴びたものの、その成果は必ずしも芳しくない。特に、神戸市長田区で行われた巨大復興事業は早期に始動したものの、被災者のニーズと齟齬をきたすなど、大きな批判を浴びた。復興に挑む被災自治体は、中長期の社会経済の予測が難しい中、人口減少への対応として域外の住民の獲得という難題も抱えているといえよう。
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1.はじめに

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、昨年2025年に30年目という節目を迎えた。芦屋市南部にある筆者の実家(集合住宅)は室内にあまり問題がなかったものの、集合住宅の構造面で半壊認定を受けるなどした。そのため、被災直後から何度か支援を兼ねて被災地入りしたこともあり、筆者は復旧・復興を垣間見る機会に恵まれた。見慣れた風景が一変した大震災の恐怖におののきながらも、流行語にもなった「ライフライン」が復旧の焦点になったことを実感した。筆者は被災した自宅の片付けなどで被災地入りする際は、飲み水とトイレ用にコンビニエンスストアにて大量の水をペットボトルで調達し、持参した覚えがある。また、筆者の身内が大阪市南部の借家に疎開したのも、水道の復旧に数か月ほどの時間がかかるとされたためであり、実家に戻ったのも、水道が1995年2月27日という極めて早期に復旧したためであった。
 また、インフラ復旧の速さで水道と並び称されたのは公共交通機関であった。被災直後は鉄道復旧までに半年から1年以上かかるとされていたが、自家用車を持たず主な都市間移動手段を鉄道に依存していた筆者の身内にとってこの鉄道不通は疎開する理由の一つとなった。 しかし、被災直後から鉄道不通区間では代替バスが運行し、また1995年2月20日には阪神間を並行して運行しているJR、阪神、阪急の3者を乗り継ぎすれば、大阪~神戸を鉄道だけで移動することが可能となった。そして、1995年の夏場には被災地の鉄道は全線復旧した。
 このように、被災規模で比較されることが多い東日本大震災と比べると、官民一体となった阪神・淡路大震災でのライフラインの復旧は極めて速く、関係者のご尽力に対して感謝の言葉もない。そのうえ、面的に破壊しつくしてしまいがちな津波被災と比べて、阪神・淡路大震災の直下型地震の被害は「点」であったといえ、住民の生活基盤となる住宅の多くが長期にわたって住めなくなるような損壊を免れたのが大きい。古い木造住宅や集合住宅に被害が集中する一方、被害が軽微な住宅が少なくなく、早期のライフラインの復旧は他地域へ疎開していた住民の早期の帰還につながった。
 一方、その後の様々な災害被災地のキーワードになる「創造的復興」が始まったのは阪神・淡路大震災であり、その成果は検証されるべきであろう。例えば、神戸市の創造的復興で注目を浴びたものとして、大規模な火災被災地の長田区における大規模再開発が挙げられる。
 そこで、本稿では阪神・淡路大震災について、神戸市の復興の課題を考察したい。特に、大都市においても人口減少に対する危機感が以前より高まっている中、被災前は人口増加していた神戸市が創造的復興を経て、2025年に22年ぶりに人口減少に至った背景を探りたい。
なお、津波被災がメインであった東日本大震災の被災地については、別稿「Insight Plus 東日本大震災の津波被災地で人口減少が加速~人口減少時代の復興の難しさ①~」にて考察するので、参照して欲しい。

2.阪神・淡路大震災の被災地は早期に被災前人口を回復

阪神・淡路大震災は多くの被害を兵庫県にもたらした。図表1に見られるように、震度7の地域は、概ね神戸市の須磨区~東灘区、芦屋市、西宮市と阪神間の海沿いに近いエリアに線上に分布している。そこで、神戸市各区、後述する復興事業が特徴的な西宮市、主な疎開先となった大阪圏の中心都市である大阪市を対象に人口を考察したい。

≪図表1≫阪神・淡路大震災の震度7の分布(赤い部分)

(出典)内閣府HP「阪神・淡路大震災教訓情報資料集阪神・淡路大震災の概要」

震度7エリアを多く抱える被災自治体では、大震災後から急激に人口流出が進んだ。疎開先としては大阪府が圧倒的に多かった(図表2)。   しかし、兵庫県の対大阪府の転入超過数が被災翌年から大きく増加しているように、ライフラインの復旧で住民の多くは早く帰還し(図表3)、被災自治体は早くも2000年~2005年頃に被災前の人口に回復している。例えば、西宮市は震災の影響で1995年に大きな人口減少となったが、インフラ復旧に加え、復興事業として西宮北口駅隣接の商業・住宅の複合再開発ビル「ACTA西宮」が2001年に開業した(後述)ことなどにより、人口は2000年から被災前の水準を超え、2015年まで増加していった(図表4)。
 一方、神戸市は区別に見ると様相が違う(図表5)。被災した区では1995年に人口が大きく減少したが、被災者の住居を多く引き受けた西区、北区では人口が大きく増えた。その後、神戸市西部の東灘区、灘区、中央区は2000年前後に被災前人口に戻ったが、それ以外の区はなかなか回復しなかった。特に、長田区は後述する巨額の復興事業が行われたにも関わらず、2000年頃をピークに人口が減少している。

≪図表2≫阪神・淡路大震災発生年の1995年における、都道府県別に見た兵庫県の転入超過数(日本人)

(出典)総務省統計局「住民基本台帳人口移動報告」(各年版)より、SOMPOインスティチュート・プラス作

≪図表3≫兵庫県における、対大阪府の転入超過数(日本人)

(出典)総務省統計局「住民基本台帳人口移動報告」(各年版)より、SOMPOインスティチュート・プラス作成

≪図表4≫西宮市の人口

(出典)総務省統計局「国勢調査報告」(各年版)より、SOMPOインスティチュート・プラス作成

≪図表5≫神戸市の区別人口

(出典)総務省統計局「国勢調査報告」(各年版)より、SOMPOインスティチュート・プラス作成

3.職住遊近接の流れにうまく乗り切れない神戸市の復興街づくり

このような阪神・淡路大震災の被災地などの人口動向の背景には、大阪圏(大阪府、兵庫県、京都府、奈良県)における都心への人口集中、都心により近いエリアへの人口集中があろう。従来の大阪圏では、オフィス街が集中している大阪市北区、中央区、浪速区への通勤可能なエリアで住居を構える住民が多かった。つまり、従来の大阪圏では大阪府内であれば大阪市外に、大阪府外であれば兵庫県、京都府、奈良県に人口が分散していた。
 大阪圏において職住遊近接の機運を先取りした形となったものとして、西宮市の復興事業として行われた、西宮北口駅隣接の商業・住宅の複合再開発ビル「ACTA西宮」を挙げることができる。
 この「ACTA西宮」の立地する場所は、被災前は駅前商店街、公設市場に約230店舗が建ち並んでいた、古くからの商業地であった。大阪圏屈指のターミナル駅「西宮北口駅」隣接という好立地のため、震災前から再開発事業が検討されてきたが、地権者などの賛同を得ることに難航していた。阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたことを契機に、復興事業として再開発事業が改めて進められることとなり、1995年に早くも都市計画が決定され、2001年に開業した。
 西宮北口駅は阪急大阪梅田駅までわずか15分ほどであるなど、オフィスと商業が集積している大阪都心へのアクセスが抜群である。従来の西宮市を含む、いわゆる「阪神」エリアでは、どちらかといえば、駅から少し離れた山側のエリアが居住地として人気であったことを考えると、この「ACTA西宮」の復興事業は「職住遊近接」という新しいライフスタイルに適した街づくりを提案したものといえよう。後述するように、西宮北口駅周辺ではさらなる再開発が企業中心に進められたこともあり、西宮市の居住地としての人気は一気に高まり、定着することになった。
 この「職住遊近接」は大阪圏屈指規模の再開発エリア「うめきた」(JR大阪駅隣接)でも見られた。企画コンペでは職住遊近接を盛り込んだアイデアが選定され、2013年に開業した「グランフロント」ではオフィス、商業だけでなく、大阪駅周辺エリアでは異例といえる高層マンションが設けられた。この再開発が好評を博したこともあって、大阪都心や大阪都心にアクセス抜群のエリアでの、住宅開発を伴う再開発に本格的な号砲がとどろいた。
 一方、この流れにやや乗り遅れた形となったのが神戸市であろう。神戸市の復興はどちらかといえば、「生業」に重点を置いたものであった。製鉄業などの重厚長大産業、衣服や長田区を中心としたケミカルシューズなどのファッション・靴産業、異人街などを起点とした観光業、三宮駅周辺に集積していた商業機能やオフィス機能のさらなる充実が図られた。その過程で、一度は関空との競争に敗れた神戸空港も、復興事業として再浮上し、根強い反対運動が続く中で2006年に開港にこぎつけた。一方、住宅は神戸市都心よりも西区などの神戸市の郊外エリア中心に大量に供給されることとなった。
 神戸市郊外エリアは前出の西宮市(大阪都心と神戸のちょうど真ん中に立地している)と比べて、大阪都心へのアクセスはかなり劣る。神戸市はおしゃれな街というイメージから住宅地としても人気であったが、「職住遊近接」による人口の都心集中の流れに乗り遅れてしまったことで、神戸市の住宅地としての人気は徐々に下がっていった。前述の西宮市だけでなく、神戸市から20分くらいでアクセス可能であり、子育て支援で一躍有名になった明石市など、神戸市と周辺自治体との人口獲得競争が激化した。神戸市で働く者が増えたとしても、その居住地を神戸市からアクセスの良い他自治体に奪われているケースが増えているのが実情である。
 このように、阪神・淡路大震災の復興の時期に、大阪市の転入超過は定着かつ増加傾向となる一方、神戸市の転入超過は減少し、転出超過に転じる時期も散見できるようになった(図表6)。神戸市は転入超過数から見れば衰退期に入ったともいえよう。

≪図表6≫神戸市と大阪市の転入超過数(日本人)

(出典)総務省統計局「住民基本台帳人口移動報告」(各年版)より、SOMPOインスティチュート・プラス作成

振り返ってみれば、長田区の副都心構想も職住遊近接を狙ったものであった。大阪圏内屈指の大都市である神戸市において、オフィスが集中する都心の三宮駅からJRや神戸市営地下鉄を使えば約10分足らずのところに、長田区の中心であるJR・神戸市営地下鉄新長田駅がある。その周辺は震災時の火災もあって壊滅的な被害を受けたが、そこに20.1ヘクタールという、2003年開業の六本木ヒルズの約2倍の面積に、六本木ヒルズ並みの2,710億円の総事業費をかけて、復興事業として再開発事業が行われた。高層ビルを含む約30棟以上のビルが建設され、3,000戸の住宅+大型商業施設が林立した。しかも、被災前より新都心構想があったこともあって、都市計画決定は地震発生からすぐの1995年3月。未曾有の規模の再開発が極めて早期に進められることになったのである。
 では、長田区の巨大再開発復興事業はなぜ西宮北口駅周辺のように、住宅地としての神戸市のブランド力向上にあまりつながらなかったのか?その背景の一つに、長田区の巨大再開発に対するマイナスのイメージがあろう。現地では商業区画に空き店舗が目立つ。再開発を巡って商店街をはじめとする従来からこのエリアで商売を営んでいる被災者と復興事業の方向性の違いがあったからだ。再開発事業は神戸の新しい都心を目指すものであり、主に三宮周辺など長田区外のオフィス街で働く者の住居地が目指された。その目的は達成され、再開発地区周辺では復興事業とは別に企業による集合住宅の建設も盛んに行われた。一方、震災前から店舗を営んできた被災者にとって、既存の住民を主なターゲットとした、被災前と同じ商売を続けることが主な目的であった。こちらは復旧といえるものであろう。
 その結果、新住民と既存の商店主の間に明らかなミスマッチが発生してしまった。例えば、営業時間を挙げることができる。被災前のエリアでは高齢化が進んでおり、仕事をもたない高齢者向けの平日昼間の営業でも商売が十分に成立していた。しかし、新住民の多くは他のエリアで仕事を持つものであって、このエリアに仕事を終えて帰ってくるのは平日では夜になるため、平日夜を営業時間とする商売が望まれよう。そして、そのようなミスマッチは、再開発施設に多額の家賃を負担して入居した商店主が、被災者であるのにかかわらず復興でさらなるに苦境に立たされてしまった。これが在阪メディアで盛んに取り上げられるようになり、長田区の復興事業がうまくいかなかったというイメージが広がった。新しいライフスタイルを実現する街として、あまり好ましくない状況に陥ったといえる。

《図表7》長田区の実際の様子

(左:長田区では復興事業として大規模再開発が行われ、高層ビルを含む30棟以上が林立し、街並みは一変した。
中:商業エリアの人通りはまばらで、苦戦しているように感じられる。
右:商業エリアでは空き店舗が散見されるが、特に2階では空き店舗が目立つ。なお、画像は全て筆者が現地にて撮影した。)

4.おわりに

2026年は東日本大震災から15年という節目の年を迎えたこともあって、創造的復興に対する検証が盛んに行われている。例えば、復興として安全・安心の街への変貌を目指し、巨額の財政支出により高台移転が進められたが、住民の高齢化に伴って、高台にある住宅街の持続可能性が大きな問題として浮上している。
 本稿では人口などから、2026年で31年を迎えた阪神・淡路大震災の創造的復興を検証した。阪神・淡路大震災は直下型地震であったため、復旧は早く成し遂げられただけでなく、復興事業も東日本大震災に比べて極めて短期間に進んだ。
 しかし、長田区の再開発事業のように復興事業が被災者のニーズと必ずしも合致せず、批判を浴びている。その結果、新長田駅周辺の再開発事業を含む様々な復興事業は、神戸市のブランド力の向上にあまりつながっていない。大阪市都心部は、職住遊近接のライフスタイルの浸透や大規模再開発の連続で、大都市の様々な機能の集積性が増し、大阪圏では他の大都市を圧倒的に凌駕する、孤高の存在になりつつある。神戸市はそのような大阪市都心部にうまく対抗できないため、大阪圏内の都市間競争で劣勢に立たされているのであろう。つまり、阪神・淡路大震災の復興は神戸市を持続可能な街にうまく変貌できなかったといえよう。
 実は、前述の西宮北口駅周辺の復興事業「ACTA西宮」については不協和音もあるとされる。同じ西宮北口駅では「ACTA西宮」と駅をはさんで反対側にて、旧阪急ブレーブスの西宮球場跡地が企業によって再開発され、「阪急ガーデンズ」という巨大複合施設を中心とした新しい街に変貌した。それにより、「ACTA西宮」の商業部分は新たなライバル出現という苦境に陥ることになった。しかし、西宮北口駅周辺のこのような商業競争は、住民から見れば利便性向上に資するものであるため、「職住遊近接」の西宮北口駅というイメージのさらなる拡散につながり、西宮市は大阪圏の住みたい街ランキングの上位に定着することとなる。
創造的復興では、被災地が被災前から抱える課題を解決し、持続可能な街に変貌することが期待されている。そして、人口減少時代の持続可能な街というのは、中長期的には域外の住民にも選ばれる街である。
 ところが、被災者にとっては被災者のニーズを最優先する街、つまり復旧色の濃い街づくりを望みがちである。人口減少時代において、被災者と域外の住民の両方のニーズを同時に満たす、言い換えれば復旧と復興を同時に達成することは容易ではない。そのうえ、復興の大前提として、中長期の社会経済環境を先読みする必要があるが、こちらも難易度がかなり高い。
例えば、高台への集団移転、交通の結節点を中心に各種機能を集約するコンパクトシティなどは、被災地の多くで浮上する復興案の典型例であろう。しかし、中長期の社会経済環境を読み、域外の住民獲得競争において将来にわたって勝利が約束されるような案に昇華させなければならない。失敗すれば、住民の高齢化で人口が減っている中、多額のコストをかけて復興事業を行ったとしても、空き家や空き商業スペースなどが負の遺産として被災地に残されることになる。
 近年は東日本大震災の創造的復興の苦境を鑑み、被災前から住民が復興のあり方を話し合っておく「事前復興」の必要性が叫ばれるようになった。被災後の創造的復興は時間がかかりすぎて、住民の帰還があまり進まなかったからだ。しかし、阪神・淡路大震災の神戸市の復興が極めて早期にゴーサインが出されながらあまりうまくいっていないこと考えると、事前復興の限界を感じざるを得ない。そもそも、事前復興として被災前から住民と十分な議論が行われていたとしても、いざ被災者となれば被災の程度や抱える課題は個々人で違うことから、被災者全員が事前復興案にすんなり賛同できるか疑問が残る。さらに、人口減少時代の復興は住民の帰還を目的とするだけでなく、被災者のニーズと必ずしも一致しない域外の住民にも選ばれることも重要である。このように考えると、事前復興も平時の地域活性化も、中長期で見れば似たような課題を抱えていることがわかる。事前復興に取り組む意義は大いにあるものの、被災地の課題を魔法の杖のように何でも解決してくれるものではなかろう。阪神・淡路大震災を教訓に、中長期的な経済社会の見通しが難しい中、持続可能な街づくりに正解がないという、人口減少時代の復興、つまり人口減少時代の地域活性化が抱える本質的な課題を直視する必要があろう。

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