タッチ決済拡大で揺らぐSuica優位
~交通決済競争とJR東日本のまちづくり~
※執筆者による本件以外の交通系決済や鉄道会社によるまちづくりに関するレポートはこちらをご参照ください。
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1.Suica一強の環境に変化が生じている
日本の公共交通では、長らくSuicaをはじめとする交通系ICカードが標準的な決済手段として定着してきた。改札処理の速さ、通勤・通学定期券との親和性、日常的な使いやすさなどを背景に、特に大都市圏では交通決済の基本インフラとして機能してきた。
その交通系ICカードが中心だった環境に、近年変化が生じている。公共交通や私鉄各社で、クレジットカード等のタッチ決済導入が広がっているためだ。導入は一部の観光地や実証実験にとどまらず、首都圏私鉄など各地の鉄道、路面電車、バスへ広がっており、交通決済の選択肢は増加している(図表)。
【図表】地域別に見た公共交通のタッチ決済導入例

(出典)各交通事業者、自治体、決済事業者公表資料よりSOMPOインスティチュート・プラス作成。
タッチ決済導入が進む背景は大きくわけて2つある。人口減少や利用者減少が続く地域では、公共交通を運営する事業者の経営環境は厳しさを増している中、決済に係る設備更新費用の負担を抑えながら利便性を維持する必要がある。交通系ICカード決済より設備更新費が安いといわれるタッチ決済が広がる一つの背景だ。もう一つの背景は、タッチ決済は専用カードの購入やチャージを必要とせず、普段使っているカードやスマートフォンでそのまま利用できる点が観光客やインバウンドにとって利便性が高いことだ。
実際、先行してタッチ決済を導入した熊本では、2025年12月時点の利用率が13.0%に達し、土曜15.7%、日祝15.1%と土休日には15%を超える。特に土日の利用率が平日より高いことは、観光客など一時利用客を中心に利用が広がっていることを示している。地方の公共交通でも、タッチ決済は利用者に受け入れられつつあることが分かる。
こうした変化をもってSuicaの優位が直ちに崩れるわけではない。大量輸送を支える都市鉄道では、改札通過速度や反復利用における使い勝手の良さは大きい。ただ、「交通決済といえばSuica」という構図は盤石とは言えなくなりつつあり、Suicaだけで完結する時代ではなくなりつつある。
2.JR東日本はSuicaの価値を拡大しようとしている
一方、Suicaを運営するJR東日本は、Suicaを改札内の決済手段として維持するだけでなく、駅の外も含めた利用者との接点へ広げることでSuicaの価値を改めて拡大しようとしている。
その動きの一つが、利用者との接点を直接広げる動きである。代表例が、コード決済サービス「teppay」への参入だ。交通利用時だけでなく、日常の買い物やサービス利用の場面でも接点を持とうとする試みとみられる。これにより、現在のチャージ残高2万円をはるかに超える、数十万の決済が可能となる。
また、これらを支える基盤の整備として、Suicaのセンターサーバ化といった取組みを行っている。従来のカードと改札中心の仕組みから、より柔軟なデジタル基盤へ移行することで、運賃制度やサービス連携の自由度を高めようとしている。将来的には、地域ごとの企画商品や他サービスとの接続など、現在の交通系ICカードの枠を超えた展開も視野に入るだろう。タッチ決済の導入が進む地方の交通事業者に、Suicaを使って魅力あるサービスを提供できる可能性があろう。
この動きの背景には、鉄道事業を取り巻く収益環境の変化がある。地方路線の維持負担に加え、老朽設備更新や安全対策、バリアフリー対応など、本業のコストは増しやすい。一方で、人口減少が進むなか、鉄道事業だけで従来のような成長戦略を描くことは容易ではない。コロナ禍を経ても通勤需要や定期券収入は完全には戻っていない。そのため、鉄道事業分野以外の非鉄道分野で収益を獲得していく必要があるためだ。
3.競争は「決済の利便性」から「日常接点」へ移りつつある
Suicaをはじめとする交通系ICカードは、速く、便利で、日常利用に耐える決済手段として優位性を維持してきた。しかし、タッチ決済が広がり、スマートフォンでも様々な支払いが可能になると、決済機能そのものによる差別化は難しくなり、どの決済手段が利用者の日常の行動導線に自然に組み込まれているかの方が重要になる。
通勤時に毎日使う、買い物でも使う、ポイントやクーポンともつながる、スマートフォンですぐ呼び出せる。そうした仕組みになれば、決済は単なる支払い手段ではなく、他のサービスにつながる入口になる。決済の前後まで含めて利用者との関係を持てるかどうかが、競争力を左右しやすくなる。
交通決済の競争は「Suica対タッチ決済」という単純な構図ではない。交通事業者同士だけでなく、コード決済事業者、クレジットカード会社、小売・ポイント経済圏など、多様なプレーヤーが利用者との接点を争っている。Apple Wallet や Google Wallet のように、決済そのものより「使う入口」を握るスマートフォン基盤の存在感も無視できない。利用者にとっては、どの決済方式が採用されているか以上に、日常的に使い慣れた画面で簡単に使えるかが重要だからだ。
Suicaが優れていても、利用開始の入口がスマートフォン側に移れば、鉄道会社は移動サービスを提供していても、利用者との入口を他社に握られかねない。JR東日本がSuicaやteppayを通じて接点確保を急ぐ背景には、決済機能そのものではなく、利用者との直接接点を維持したいという事情があると考えられる。
しかし重要なのは、その接点をどこで価値に変えるかである。これはJR東日本に限らず、鉄道会社各社に共通する課題だ。沿線開発や駅周辺の再開発、会員基盤の活用が重視されるのも、そのためである。
4.利用者と接点を持った先まで描けているかが重要
今後の交通決済は、地域ごとに最適解が分かれていく可能性が高い。地方では導入負担や観光対応を踏まえ、タッチ決済が広がる地域が増えるだろう。大都市圏では交通系ICカードが主軸であり続けつつ、他の決済手段との併存が進むとみられる。タッチ決済の拡大は、日本の交通需要が一様ではなくなったことに対応する再編と考える必要がある。
利用者との接点を持った先に、どこで収益やサービスにつなげるかという課題は、鉄道会社各社に共通する。JR東日本の場合、その論点がよりはっきり表れるのは、Suicaという交通と決済をまたぐ基盤を持っているからだ。交通利用の場面で日常的に接点を持てる以上、次に問われるのは、その接点を改札の外でどう生かすかである。
その視点で見ると、先日開業した大井町トラックスや高輪ゲートウェイのまちづくりは、単なる不動産開発ではない。Suicaやteppayを通じて得た接点を改札の外へ広げ、その接点を街の回遊や購買へつなげるための場とみることができる。駅ナカでは通行客を消費につなげやすかったが、駅の外では、そもそも来訪したくなる理由をつくる必要がある。だからこそ、これからのJR東日本のまちづくりには、駅だけでなく、わざわざ訪れたくなる価値がある、職・住・遊が近接した職住遊近接のまちづくりが求められるのではないだろうか。
改札内で築いた優位が、改札の外でもそのまま通用するとは限らない。Suicaの次に問われるのは、交通系ICとしての機能を維持することにとどまらず、Suicaを持つ人がJR東日本の街で過ごしたくなる理由をつくれるかどうである。